三成は中一で厨二病のようです

 朝八時を過ぎたばかりの教室には、机に鉛筆を走らせる硬質な音だけが響いていた。音楽室の方からは吹奏楽部が朝練をしているのか、様々な楽器が思い思いの音を鳴らしていたが、その音もここでは遠く小さくしか聞こえない。それを家康は呪った。せめて、楽器を携えた吹奏楽部員が個人練をするために、ふらりと教室へ来てくれないものかとも願っていたが、その願いは叶うことはない。今、この教室にいるのは、目をカッと見開きながら何事かを机に書き綴っている彼の友人、石田三成と、そんな友人を遠い目でしか見ることができない徳川家康二人きりだった。
「な、なぁ三成……そろそろ誰か来るかもしれねぇから、そこらへんにしておいた方がいいんじゃねぇか?」
「貴様が声を掛けなければ、誰か来る前に書き終わる」
「その、やっぱりこういうことは止めた方がいいとワシは思うんだが」
「いいから、廊下を見張っていろ!」
 おそるおそる掛けられた家康の声は、三成によって一蹴された。その間も三成は何事かを一心不乱に書き連ね、家康を省みることはない。鬼気迫るといってもいいくらいの友人の形相を見て、家康はこの場に居合わせたことを、いや、不用意な一言を告げてしまったことを心から後悔していた。

 *** *** ***

 ことの起こりは、つい先月の話だ。家が近所で物心つくころから仲が良かった家康と三成は、仲良く小学校を卒業し、仲良く同じ中学校へと入学を果たした。桜が舞い散る中、口を開かなければ端正な顔立ちが凛々しい三成は、人々の羨望を集めており、その隣に立つ家康に対しても嫉妬じみた視線が向けられていた。
 しかし、三成はその一切の視線にはかまわず、何ごとかに気を惹かれたように、何かをじっと見据えていた。他人からの視線に敏感な家康は、やっかみ混じりの視線に辟易していたため、友人の挙動には気づいていなかった。
 ついには、足を止めてしまった三成のおかしさに、ようやく気づいた家康は友人が何事かを凝視していることに首を捻る。滅多なことでは興味を惹かれないこいつが、いったいどういうわけだ?
 むくむくと首をもたげた好奇心に従い、三成の視線の先を追ってみると、それはクラス分けの紙が張り出されている掲示板へと向いていた。こいつにクラス分けを気にする可愛らしいところがあったのかと、吹き出そうとした家康だったが、よくよく見るとその視線は掲示板ではなく、その手前、人が押し寄せている集団へと向けられているようだった。
「おい、三成?」
 呼びかける家康の声にも反応せず、なにかをただ見続ける三成。しかし、ふいに体が跳ねた。もう一度、視線の先を見てみれば、一人の少年が三成へと視線を向けていた。
 自分たちと同じく新入生だろう彼は、まだ十代前半にも関わらずふてぶてしいオーラに溢れていた。特に遠くからでもわかる、黒と白が反転している瞳が目を引いた。
 その男は何の感情も伺えない表情で三成を見ていたかと思うと、すぐに背を向けて、下駄箱へと向かっていった。
「なんかあいつ、性格悪そうだな。そんなにあいつのことが気になったのか? 確かにあの目、普通じゃねぇもんな」
「答えろ家康、人間とはああして光るものなのか?」
 どこか浮ついたような三成の声は、彼らしくないものだった。特に質問内容が、一層彼らしくない。
「あ? なんだって?」
「今の男、光っていたぞ」
 こいつ、ついに壊れちまったのか? うろんな目で自分を見る友人には一切気づかず、三成は下駄箱へと消えた男の背を追い続けるように、じっと見据えていた。それが家康にとっての悪夢の始まりだった。

 何の因果か三成と同じクラスに分けられた家康は、まだ浮ついている幼馴染を半ば引っ張りながら、教室へと向かった。だが室内に入った途端に三成は、室内を睥睨し始めた。睨みつけるとしか表現のしようのない視線に、ある者は顔を逸らし、ある者は短く悲鳴を上げた。しかし、当の本人は彼らに一切構うこと無く鞄を机に置くと、教室を出ていく。すると、教室内に安堵のため息が漏れた。始めは三成の相貌にため息を漏らしていた女子生徒も、例外なかった。視線の鋭さに、燃え上がった熱が一瞬にして冷めたのだろう。一連の様子を見届けた家康は、肩を竦めた。そして三成と同じように鞄を机に置いた後、彼の後を追いかけた。彼とは違って、前後に座っていたクラスメートに初対面の挨拶を交わしていたが。

 教室を出てすぐに三成は見つかった。新入生が行き交う廊下を窓の側に佇んでいた。相変わらず、睨みつけているとしか言いようがない表情だ。
「見つかったのか?」
「いや。……何故、私が人を探しているとわかった」
「そりゃ、ワシとおめえの仲だからな!」
 三成は黙って顔を歪めた。それを見て、家康は満面の笑みを浮かべた。この男、三成と長年付き合えるだけあって、まともな人間というわけではなかった。
「とにかく、探してるのはさっきの性格悪そうな男だろ?」
「……」
「沈黙も答えだぞ、三成。それにこうして突っ立っているより、教室を虱潰しに見ていったほうが早いと思うんだが」
「貴様は馬鹿か。そんな、如何にも人を探していますというような風体で行って、いざ当人と出くわしたら、相手に筒抜けではないか! 恥を知れ、この痴れ者が!」
 拳を握り、唾を飛ばしながら力説する幼なじみを前に、家康はしばし思考停止した。
「恥を知れって……別に、なんか用があんだろ? それなら、あいつに探されていることが知られても別になんの問題もねぇじゃねぇか」
「ここまで愚かだったとは思わなかったぞ家康……!」
 それはワシが言いたい、という一言を家康はぐっとこらえた。未だ齢は十二であるが、それなりに世渡りは上手い方だった。
「恋の駆け引きは、相手に知られた方が負けなのだ。半兵衛様はそう仰っていた」
「また三成の、半兵衛様病が始まった! おめえはいつも半兵衛様半兵衛様とそればっかり……だ……?」
 耳がタコになるくらいに聞かされていた、三成の従兄の名を出されて、反射的に言い返してしまったが、その前に聞き捨てならないことを聞いたような気がして、家康は口を噤んだ。急に黙りこんだ彼に、三成の眉根が寄る。内心、一度言いかけたなら最後まではっきり言え、と考えているのが顔に浮かんで見えるほどだった。
「すまねぇが、半兵衛サマはなんつってたか、もう一度言ってくれねぇか?」
「耄碌したか家康」
「出来れば、今この瞬間そうなりてぇと願っている。強烈にだ」
「何を訳のわからないことを言っているのだ。ではもう一度、半兵衛様の有り難いお言葉を伝えよう。恋の駆け引きは相手に知られたら負けだよ三成君。かくいう僕もね、結構な手段を使ったものさ。それこそ、卑怯と言われたり、冷酷だと他人から罵られたこともあった。けれど、それが相手に伝わらなければ、こっちの勝ちなんだよ。つまりは、勝ったもの勝ち、そういうことだ。以上が半兵衛様の有り難いお言葉だ。よく胸に刻んでおけ」
「つまり、三成はあの男に、ひ、ひと」
「一目惚れだ」
 家康は、口角のあたりがヒクリと動いたのを感じた。おそらく、今の自分を外側から見たら、さぞや引き攣った顔をしているだろう。一切の恥じらいもなく、一目惚れだと宣言する幼なじみは、こんな時ですら彼らしかった。もっとも、乙女のように頬を染め節目がちで、たどたどしい彼など見たくなかったが。それでも、出来れば今のは聞かなかったことにしたいレベルのものだった。いや、聞かなかったことにすればいいのではないか? そうだ、そうしよう、そもそもワシは何故ここにいるのだろうか、本来なら何かと連帯行動が多くなるだろう出席番号が近い者と親交を深めるべきだろう、石田三成はイ、徳川家康はト、ほらアイウエオ順で見るとこんなにも差があるのだ、所詮幼馴染といえど班行動は別になるのだ、さあ早く教室に戻って新しい門出を祝おうじゃないか、ワシによるワシのためのワシのためだけの門出、三成からの旅立ちだ!
 一瞬で数多の思考を終えた家康が踵を返そうとしたその時。
「ここまで聞いたのだから、貴様も私の恋路の協力をしろ」
 三成の腕が伸び、家康の襟首が捉えられた。上背では三成の方に分があるため、この時点でかなり家康が不利である。力では家康に分があるので、本気で暴れれば振りほどけそうだが、それではいらぬ注目を引いてしまうだろう。ただでさえ、先程から廊下を行き交う人々がチラチラと三成に目をやっているのだ。入学初日から騒ぎを起こすような真似はしたくない家康だった。そうなってしまえば、家康に取れる行動はただ一つ。
「勿論、だ」
 心の中だけで、勿論お断りだと叫ぶだけだった。

 それから一ヶ月の間で、あの男の名前が大谷吉継であること、クラスは三つ隣のため体育などの合同授業で一緒になることは一切ないこと、中学校入学を機に引っ越してきたため彼を知る人が誰もいないことを二人は把握した。
 大谷と三成の接点が全くないことに、家康は安堵のため息をついた。腐れ縁の幼馴染とはいえ、みすみす同性に走るのを応援するには滞りがあった。接点がないことを理由に、三成の恋愛感情が自然消滅してくれることを願う。
 もしも、大谷が女だったら家康は心から応援し、三成をつっつき、からかったことだろう。十年以上一緒に過ごしてきて、異性に気を取られる様子など一度もなかった幼馴染だ。初めての恋愛となれば、自分のことのように喜べたはずだった。
 しかし、まるで家康をあざ笑うかのように、事態は急変した。それは三成の手によって。

「おい、明日は早く登校するぞ」
 昨日の下校中、いつもと変わらぬ仏頂面で三成は突如として切り出した。
「なんだ、宿題のプリントでも忘れたか? それなら今から取りに行けばいいだろ」
「私がそのようなくだらない失敗をするような人間に見えるのか? いつから貴様の目は腐った」
 ワシよりもお前の目の方が腐っていると思う、現在進行形で。家康は小声で独りごちた。三成には聞こえないような、囁き声で。
「大谷吉継が来る前に済ませておかねばならないからな」
 その一言が、家康の不安を誘った。

 *** *** ***

 そして翌日、現在。
 三成は、大谷の机の右隅に何かを一心不乱に書き綴っている。誰か来ないかと気を揉んでいる家康とは違い、思いの丈を吐き出している彼はどこか楽しそうにも見えた。思いの丈、つまりは一般的に言う恋文のはずなのだが、その文面をちらりと見た家康は、そうでないことを知っている。そして、出来ることなら今すぐ作業を中断して、消しゴムで跡形もなく消してしまったほうがいい内容であることも知っている。
 体だけは廊下に向けつつも、家康は思案した。この事態は、放っておけば確実に将来の三成の傷になる。友のためを思うなら、今すぐ説得し、どれだけ詰られようとも彼の人の机から引きはがすべきなのである。
 しかし、心の中でもう一人の家康がこう主張するのだ。説得しようとすると面倒なことになるから放っておけ、これはこれでおもしれぇじゃねぇかと。
 確かにそれも一理あるのだ。それに未来の三成がこの出来事を思い返したら転がりたくなるような出来事だとしても、今の三成は喜んでやっているんだ、何の問題があるのだろう。家康は段々、幼なじみを説得するよりはことの成り行きを見守る方向に心が傾きつつあった。
 しかし、どちらにせよ一つだけ解決しておきたい疑問が彼にはあった。まずはそれを尋ねてからでもいいんじゃねぇかな。それが既に消極的な逃げの体制だということは、気づかない振りをした。
「なあ三成」
「見張っていろと何度言わせるつもりだ!」
「大丈夫だ、ちゃんと見てる。で、一つ聞きたいんだが……そこにはゼウスより麗しの君へ捧げる=セレナーデ=って書いているが、ゼウスって誰だ?」
「ゼウスは私だ」
「あ、そうなんですか」
 間髪入れずに返された応えが、日本語のはずなのに家康には理解できなかった。意味がわからないと素直に言えば、ますます面倒なことになるだろうとこれまでの経験から悟ったので、聞き流すことにした。しかし、その淡白な反応が良くなかったのだろう。三成が手を止め、拳を握って力説を始めた。
「ゼウスは、ギリシア神話の主神でな、実に恋多き神だ。とはいっても私は浮気性ではないぞ! 大谷吉継一筋だからな!」
「……おめえ大谷と話したことあったか?」
「まだない。だが、話したことがないのに一筋であってはいけないということもないだろう」
「人となりもわかってないのに、よく一筋だなんて言えるな……」
「わからんが、わかる」
「? とにかく、なんでゼウスがおめえで、今出てくるんだ?」
「貴様も大概鈍い男だな。大谷吉継に私の正体は知られたくない。しかし、想っている人間がいることを知ってほしい。そいつは一体誰だろうと、ヤキモキすることだろう。ゼウスになぞらえているからには、正体は男のはず。しかし一向に姿を表す気配もない。一体誰だ、誰なのだろうか。ヤキモキが頂点に達した時、私が名乗り出れば、大谷吉継はイチコロだ!」
「名乗り出るって、私があなたの机に君に捧げるセレナーデ〜ウーノ〜というタイトルから始まるいたずら書きをしたゼウスこと石田三成です、ってな風にか? 冗談だろう」
 家康は想像してみた。この仏頂面で、ゼウスこと石田三成だ、と高らかに名乗る友人の姿を。そして思い知る。人というのは、笑ってはいけない状況だと余計に笑いの発作が強くなることを。
 この場で吹き出したら、目の前の男は烈火のごとく怒り狂い、手当たり次第に物を投げ始めるだろう。それこそ、机や椅子などといった危険物も容赦なく投げるはずだ。家康にとってそれらを避けることは造作もないが、さすがに朝から疲れるような真似はしたくない。
 鍛えられた腹筋に力を込め、笑いの発作を押し殺す。しかし、肩の震えまで殺すことは出来なかった。
 それを見咎めたのか、はたまたせせら笑うように告げられた家康の言葉が気に障ったのか、三成はいつになく声をあらげた。
「これは、いたずら書きではない! 告白への布石なのだ!」
「おい、大声を出すんじゃねぇって……」
 近くに人の気配はないといえど、声というのは思わぬところまで届くものだ。どこかで誰かが聞きつけて、不審に思い、やってこないとも限らない。三成だけが見つかるならともかく、自分まで見つかるのはごめんだと家康は焦った。そして、その焦りで自分は友人の奇行に対して傍観する気持ちの方が強いことに気が付いた。心の隅で、ちょっと酷いんじゃねぇか? と自分を糾弾する声が上がったが、黙殺を決め込んだ。
「とにかく、そろそろ撤退しようぜ。おめえもだいたい書き終わったんだろ?」
「……そうだな、今日のところはこれくらいでいいだろう」
 今日のところは、という部分に引っかかりを覚えた家康だったが、この場を去れる安心感から流してしまった。

 さらに次の日。
 二人は昨日と同じように、人気のない廊下を歩いていた。今日も今日とて、吹奏楽部は朝練をしているらしい。遠くで奏でられている楽器の音以外には何も聞こえてこない。まだ新しい上履きでリノリウムの床を鳴らし、一年生の教室のフロアへと階段を登る。
 階段を一段一段と登るにつれ、段々家康の表情が翳ってきた。勿論、息苦しくなってきたからというわけではない。最上階まで到達し廊下を歩き始めると、ついには深いため息をついた。
「また今日もやるのか……。昨日のアレを、大谷が読んだのかと思うと他人事ながら顔から火が出ちまいそうだ」
「貴様にはわかるまい。読む人が読めば伝わるのだ。恋の駆け引きとはそういうものだろう?」
「ドヤ顔で言われても、おめえこれが初めての経験じゃねぇか!」
 自分たちの教室を通り過ぎ大谷のクラスに向かっている最中、その目的地から一瞬だけ光が廊下に漏れた。瞬きするほどの僅かな時間の出来事である。
 二人は歩みを止め、黙って顔を見合わせた。二人の間に言葉はなかったが、その行為だけで、お互いに刹那の光を見たこと、幻や目眩などではないことを無言のうちに悟った。十年以上に渡る腐れ縁だけあって、こういった時の意思疎通は見事なものだった。
「取りあえず、行ってみっか」
「……そうだな」
 止まっていた足を動かし、僅かに警戒しながら進む。息を殺しつつ、三十秒ほど歩くと件の教室の前へと辿り着いた。再び顔を見合わせお互いに頷く。そして、人が通れるだけの隙間が開いた扉から中を伺う。
 そこには、一人の男子生徒がいた。部屋の中央に佇み、二人に背を向けているため、誰なのかは伺い知れない。だが、三成は短く息を飲んだ。珍しい彼の仕草に家康は首を傾け、そして理解した。その男が誰なのかを。
 二人の気配に気づいたのか、男子生徒がゆっくりと振り向いた。白と黒が反転した瞳。この目を持つ者は、世に二人として存在しない。大谷吉継、その人だった。
 教室内が静寂に支配されていた。三成は先程息を飲んだきり固まっている。家康は異様な雰囲気に呑まれ、黙りこくっていた。大谷は何も伺わせない表情で、二人を見据えている。目が爛々とし、その様は獲物を狙う肉食獣が如くだ。
 やがて、大谷は目を眇めた。すると瞳の輝きがまぶたの下に隠れる。それを見て、家康は一息ついた。彼にとって、無二のあの瞳で見据えられると、否応に緊張せざるをえないようだった。
「見慣れぬ顔よな」
 年相応の声のトーンにも関わらず、掠れていることで声の持ち主の年齢を不詳に思わせる。家康が大谷の声を初めて聞いて、その印象を覚えた。同級生なはずなのに、どこか近寄りがたい。
 けれど、なんとかこの場を誤魔化さねばならねえとの決意を抱く。未だ放心している三成には頼れない。出来る限りの平静を装って、教室内へと踏み込んだ。
「お、大谷! おめえも随分と早い登校だな」
「少々、片付けねばならぬ問題があってな。しかし、その用も今しがた済んだところよ。それより、何故われの名を知っておるのだ」
「あー、ほら、おめえ結構目立つから有名なんだよ! なぁ三成」
 同意を求めて振り向くが三成は身動きせず黙り込んだまま一切の反応を見せない。しかし、視線は真っ直ぐに大谷へと向けられている。これは駄目だと幼馴染に見切りをつけ、再度大谷に向き直る家康はそこで違和感を覚えた。大谷の視線は少し外れていねえか? この男、ワシではなくて、もっと後ろを見てはいねえか? 具体的に言うならば、三成のことしか見てねえんじゃねえか。酷く、嫌な予感に苛まれた。このままここにいたら、見たくもないものを見せられてしまうような、そんな悪寒だった。
 だが、放心したままの三成を放ってはおけない。

 その正義感が、家康の仇となった。

「あー……、ワシらだけおめえの名前知っているってのも、締りが悪いよな。ワシの名は徳川家康、クラスは四組だ。こいつの名前は」
「石田三成」
 家康の言葉を遮って、大谷は三成の名を告げる。得意げな表情すらも浮かべていた。わざわざ大谷のことを調べている自分たちとは違い、大谷が三成のことを知る由もないはず。家康は驚きに目を見開いたが、三成もまた驚いていた。ようやく身動ぎをし、囁くような呟きを漏らした。
「何故、私の名を」
「ぬしは、結構目立つから有名であろう?」
 含みのある表情から、その言葉が先ほどの言い訳のお返しだと気づいて、家康は眉根を寄せた。すると、更に愉快そうに大谷の目が細められた。
「こいつ性格悪い、とでも考えたか、徳川よ」
「いやいや、そんなわけ……」
「ヒヒヒ、安心せい。われは確かに性格が悪いゆえ」
 引き攣った笑いを漏らし、体を揺する大谷を見て、家康は確信した。こいつ間違いなく性格悪い。
 ひとしきり笑い終えると、大谷は目元を指でぬぐった。どうやら笑いすぎて涙が浮かんでいたようだ。そして表情を生真面目なものに切り替えると、一歩足を踏み出した。家康の方、正確に表現するならば三成へと向かう。
「時に三成よ、ぬしは毎日かように早くに学校に来ておるのか?」
 問われた三成が首を縦に一回振る。その仕草は子供じみたもので、こいつらしくないと家康は感じた。そして同時に先ほど感じた悪寒が、より強まる。
 また一歩大谷が足を進める。ゆっくりとした歩みだが、確実に三成との距離が縮まっていく。
「さようか、それは僥倖よ。ならばわれも明日も早く来るとしよう。さすれば、ぬしと話せる時間を持てるゆえ」
「それは、どういう意味だ……ッ」
 家康には脇目も振らず、三成の目の前に辿り着いた大谷は、右手を伸ばして彼の頬に触れた。壊れ物に触れるかのような、柔らかい手つきだった。触れられた瞬間、身じろぎをした三成だったが、大谷の手を振り払うようなことはしなかった。
「ぬしのことをもっとよく知りたい、そういうことよ」
 三成は刹那の後、目を見開いた。そして見る見るうちに顔一面どころか首筋まで真っ赤に染まっていく。唇がふるふると震えている。
「嫌とは言わせぬぞ?」
 甘く囁かれた言葉に、三成は先ほどと同様に首を縦に振る。しかし、先程より遥かに緩慢としたその動きが、彼の内面を如実に表われていた。

 二人の様子を、逃げることもできずに黙って眺めざるをえなかった家康は悟った。ワシ今度から直感には素直に従おう。

*** *** ***

 それから六年後。
 家康の提案で、大谷のアパートにて大谷と三成と家康の三人で真夏の鍋パーティが開催されることとなった。家主とその恋人にはくだらないものを見る目で蔑まれたが、結局家康が押し切る形で意見を通した。最も、三成が本気で嫌がるのなら、どれほど家康が押し切ろうとしても、大谷は頑として首を縦に振らなかっただろう。逆に言うのならば、彼が嫌がったとしても、三成が真にそれを望むなら最終的には聞き届けてしまう甘さを持っていた。
 つまり、三成も鍋パーティをしたかったということである。六年前のあの日以来、三成の隣には大谷が居るようになり、自分の居場所を奪われたような、少しの寂しさを覚えた家康。しかし、こうしてたまに見せる三成のわかりにくい友情が、照れくさくも嬉しいのだった。

「おーい、大谷ー」
「開いておる。勝手に入るがよかろう」
 家康が乱暴に金属製の扉をガンガンと叩くと、すぐにくぐもった声が返ってきた。直に来ることを見越して、鍵を開けていたのだろう。それでは遠慮なく、と独りごちると近所のスーパーで買い集めた食材を抱えながら、扉を開けた。
 途端、台所に立ち野菜をリズミカルに切っている大谷の姿が目に入った。玄関から一つしかない部屋へと真っ直ぐに続く廊下の途中に、台所とはお世辞でも言えないようなささやかな流しが配置されている。そこで大谷は一足先に材料を準備しているようだった。鍵を開けっ放していた理由も、このために手が離せなかったためだろうと家康にも合点がいった。
 足元に目を向ければ、玄関には一足の靴だけが置かれている。三成はまだ来ていないようだと家康は悟った。どうせ近所中のスーパーを回って、少しでも値段の安い店で買おうとあくせくしているのだろうと察しを付ける。大学に入って一人暮らしを始めた大谷の家に入り浸るうちに、三成は所帯染みた知恵を身につけつつあった。
「まだ三成は?」
「あの様子では、しばらく時間が掛かるだろうな。先にぬしの買ってきた物をこっちに寄越しやれ」
「悪いな」
「ぬしに任せておいては、ただ切るだけでもどれほど時間がかかるかわからぬからな。ヒヒヒ」
 言ってくれる、と頬を掻きながらも素直に従う。実際、家康はまるで家事が出来ないのだ。そのため、渡されたビニール袋の中を改めながら部屋で時間を潰していやれと大谷から促されるのも至極当然の話だった。
 家康は六畳の狭い部屋に置かれた本棚を興味なさ気に眺める。漫画でも入っていればと僅かな期待を抱いてのことだったが、影も形も見当たらない。大谷が漫画を読む姿など想像も出来なかったので、半ば予想通りではあった。
 だが一冊の本を目にすると、途端に目を輝かせた。本棚の端に並べられていたモスグリーンの背表紙に金字で刻まれた母校の名前。中学校の卒業アルバムだった。自分の物はどこにいってしまったのか検討もつかないため、これ幸いと思い出に浸らせてもらうことにした。
 几帳面にも収められていたカバーからアルバム本体を取り出す。表紙には昔懐かしい母校の校舎が写されている。ほんの六年前には毎日通っていたというのに、こんな建物だったろうかとはっきりしない記憶に苦笑しつつ、ページを捲る。すると、ひらりと一枚の写真が舞い落ちた。
「おっと」
 表面が上側に向いてしまっているため、図らずも写真を目にしてしまった。これはプライバシーの侵害だよなぁと詫びつつも、見えてしまったものは仕方がないと、家康はどこか強気だった。
 その写真には、学校で使うような机がアップで写っていた。中心には、黒い文字のようなものが書かれていた。ごく普通の学校生活の写真を後生大事にとっておくなんて大谷にも可愛いところがあるんだなと彼の意外な一面を発見した喜びに家康は顔を綻ばせた。
 が、次の瞬間その笑顔が氷付いた。嫌な予感がする。写真を手に取り、中央に写った文字を、目を皿のようにして読み取る。そこにはゼウスと言う単語が頻出していた。間違いない、これはあの時三成が書いたセレナーデだった。
「お、大谷、お前、これ、写真、なんで」
 写真を持って、大谷に問い詰めようとしたが、あまりの衝撃で言葉が出てこない。痛い。あまりにも痛すぎる内容だった。
 家康に投げかけられた言葉の不可解さに、大谷はうろんな目で振り向いた。だが、その手に握られている写真を見ると合点がいったように、口角を持ち上げて人の悪そうな笑みを浮かべた。
「懐かしかろう? 今の三成にとっては黒歴史であろう代物よ」
「お前、なんで、三成が書いたって」
「われが三成の文字を見間違うはずもなかろう。折角われの机に思いの丈を書いてくれたのだ、記念に撮らない理由もあるまい」
 慈しむ目で写真を眺める大谷の言葉に嘘はなさそうだ。人前では滅多に見せない、むしろ長い付き合いだと自負している家康ですら初めて見る表情だった。
 確かに大谷ならそれだけの理由で、写真を撮ったとしてもなんら不思議ではない。三成も告白のつもりでデウスのセレナーデを書いたと言っていたような記憶が家康の脳内にうっすら蘇ってきた。分かる人には分かっていたということか。文面の痛さはともかくとして、それも大谷なりの愛情なのだろうと家康は受け止めた。
 が、すぐにそれではおかしいことに気がついた。
「これ、お前と三成が出会う前に書いた奴だぞ。何故それを三成の字だとわかった上で写真に撮っているのだ? どうして三成の字を知っていたんだ。それどころか、存在だって知らないはずじゃないか」
「だから、言ったであろう? われが三成の文字を見間違うはずもなかろうと」
「え、え?」
「察しの悪い男よな、徳川。だからぬしは童貞なのだ。恋の駆け引きは、相手に知られた方が負けなのだ。まあ三成になら、いつでも負けて構わないというものだが。しかし、今日三人が集うこの日に、この写真が出てきたのも何かの運命よ。今日はわれのゼウスをこれでからかうことにしよう」
 獲物を見つけた肉食獣のように、瞳を煌めかせる大谷を前に、家康は改めて思った。

 やっぱりこの男性格悪い。
Written by BAN 0821 11

-Powered by HTML DWARF-