刹那

 刑部がゆっくりと遠ざかっていく。戦国最強の一槍をその身に受けたのだ。某らの力で宙に浮かんでいるため、大地に衝撃を散らすことは出来なかった。あの力は岩をも容易に砕く。岩よりも脆い刑部では、一体どうなってしまうのだろう。
 口元を血で濡らし、胸まで赤く染まった半兵衛様。大雨が降りしきる中、水たまりに顔を浸からせながら倒れ伏した秀吉様。お二方の最期が脳裏に浮かんだ瞬間、私の足は駆け出していた。
 しかし、あまりに遅い。周囲から俊足だなんだと褒めそやされても、肝心なところで役にたたなかった。何故、本多忠勝の投げた槍を躱せなかったのか。何故、刑部が私を突き飛ばすより先に動けなかったのか。何故、吹き飛ばされた刑部を抱きとめることができないのか。
 地面に落ちた刑部に駆け寄ったとき、その目はしかと私を捉えた。しかし、意識を感じさせぬ眼差しに心臓が鷲掴みにされた心地がした。これは、以前に二回味わった痛みだ。認めたくない。刑部までもが私の元を去るなど、そんなことがあってはいけない。
「刑部、しっかりしろ! 意識を保て刑部!」
 抱き寄せて、頬に手を当てる。顔当てと白布のため、顔色はわからないが目が虚ろとしている。この目は何度も戦場で見てきた目だ。名も知らぬ敵に私がそうさせてきた。ゆっくりと、螺旋状の槍が貫いた腹部に目を遣る。一面の赤。ビクリと背筋は震えた。
「刑……部……?」
 白い包帯が赤く染まっていた。むしろ赤を通り越して黒といった色合いだ。わけも分からず指を伸ばす。無様にも震えていた。指先に包帯が触れると、温かかった。温かい、刑部が生きている証。そして死にゆく証でもあった。血溜まりは急速に広がりつつある。刑部が死ぬ。この世に誰もいなくなる。私はひとり残される。だが。
「そんなこと、あってたまるものか……!」
 刑部が死ぬなどあってはならない。許さない、許しはしない!
「誰か! 刑部の手当てを急げ!」
 あらん限りに声をあげ、人を呼ぶ。本多忠勝と刑部の戦いの余波を避けて、どこかしらへ身を隠していた一般兵にもこれで伝わるはずだった。
「秀吉様、どうかご加護を……。まだ刑部をこの世に留まらせる許可を」
 溢れる血を抑えようと、腹部を渾身の力で押さえつける。すると、なにか硬い感触が指先に触れた。見れば、刑部が操る水晶玉の欠片であった。おそらく、槍から身を守ろうと咄嗟に仕込んだものだったのだろう。これなら、刑部は助かるかもしれない。
 背後で、誰かが駆け出してくる足音も聞こえてきた。助かるかも、ではない。必ず刑部は助かる!
「いいか刑部、諦めるな! 生きることを諦めるな! 私を残して逝くと諦めるな!」
 虚ろなままの刑部の目が、それでも確かにゆっくりと瞬きをした。
Written by BAN 0211 12

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