カニ道楽

 大学の側に借りた三成のアパートから大谷の家までは、電車で二駅の距離だ。電車を降りると、いかに車内は暖房が利いていたかがよくわかる。ホームに吹き荒ぶ風が三成の首を縮こませた。マフラーをしてくるべきだったかと、ちらと思い浮かべたが、首を締め付けるあの感覚を思うと、とても実行する気にはならなかった。前に首を刈られた時のことを思い出すので、極力首周りは自由にしておきたい。タートルネックなど以ての外だ。社会に出れば嫌でも付ける羽目になるぞと大谷は言ったが、貴様はしてないではないかと三成が返せば、われはよいのよと嘯かれた。
 大谷は、刑部某という名で現在執筆活動をしている。死に様の無惨さや物語の救いのない作風には根強いファンがついていて、現在もシリーズ物の新刊を待ち望む声がネット上に溢れている。前に三成が大谷の本を読んだところ、登場人物の誰一人として共感出来なかったものだが、世の中には物好きな者も多いものだと世界の広さを知る羽目になった。しかし、三成と大谷の出会いは実に、実に狭い世界の中で行われた。

 それは三成が中学二年の時だ。学力にはさほど問題がなかったのだが、周囲に流される形で塾へと通うことになった際、そこで講師のバイトをしていたのが大学生当時の大谷だった。頬杖をつきながら何の気なしに黒板を眺めていると、教材を持ちながら教室へ入ってくる大谷が視界に入った。目を見開き、教壇に立つ男を凝視する。包帯は巻かれておらず、表面上からは障りも伺えなかったが、以前の大谷そのものの相貌だった。
 以前から繋がりのある人物に出会うのは初めてのことで、彼があの大谷と同一人物なのか三成には検討がつかなかった。しかし、穴のあくほど己を見やる三成に気がついた男は、声を上げずに口角を持ち上げて笑った。その笑みは、以前に腐るほど三成が見たものだ。そうと認識した瞬間、音を立てて椅子から立ち上がった。
「刑部!」
 三成の周りにいた友人たちは、突然何を叫ぶのかと注視し、何故大谷のことをそのように呼ぶのかと訝しい表情を浮かべた。教壇の上に立った大谷にはそれがよく見て取れた。しかし、再会に驚き喜んでいる三成は全く気がついていない。
「あー……石田君。ぬしはあとで講師室に来るように……」
 三成が下手なことを口走り、学校での立場が悪くならぬようにと先手を制したはずの大谷の心遣いも浮かれる彼の前には脆くも崩れ去る。
「刑部、お前も生まれていたのだな! ということはどこかに秀吉様や半兵衛様もおわすのだろうか……!」
「大谷せんせー石田と知り合いなんですか?」
「ギョウブってなんすかー?」
「石田お前突然何言い出すんだよー」
「あ、ああ、うむ……それはだな」
 平静を装いながら大谷は内心慌てた。もしこの言動を原因として三成が虐められたらどうしてくれよう。現代の中学生は、以前の若者に比べると幼くとも残酷である。もし三成が以前と同じ気性をしていれば、虐めなどに屈するような男ではないだろうと百も承知だったが、だからといって火種を見過ごす理由もない。なんとかこの場を打開しようと脳をフル回転させる大谷をよそに、三成は茶々を入れた者たちに心底蔑む視線を向けながら毒を吐き出す。
「刑部とは刑部だ。それ以外の何者でもないだろう。一体何を聞くのだ、馬」
「実はだな! それは……ペンネーム。そう、われはペンネームを持っているのよ! それが刑部と言うのだ!」
「えー先生、もしかして小説書いてんの!? すげー!」
「そう、そうよ! その原稿を石田に見せたことがあるので、われを刑部と呼ぶのよ。全く石田よ、その名で呼ぶのは個人的な時だけにせよとあれほど言うておったのに、しょうのない奴よな!」
「刑部、貴様なにをふざけたことを」
「さあ座れ石田! 時間も押しておるし、授業を始めるぞ! 授業中の私語はいかぬゆえ、皆口を閉じよ!」
 その授業以来、大谷は生徒から刑部先生とからかい混じりに呼ばれるようになった。変わった呼び方をされることに同僚の講師が好奇心を抱き、事情を話せば原稿を読ませてくれとせがまれ、誤魔化すのも限界に達したため、ついに実際に小説を書く羽目になってしまった。それを読んだ同僚や周囲の熱意に押されて完成した原稿を出版社の新人賞に投稿する羽目になり、あれよあれよと気がつけば文壇デビューする流れになってしまったのだ。
 今生の職業が三成を原因としてあっさり決まってしまったことに対して、大谷が思うことは一つ。これなら例え人前でわれを呼んだとしても、不審な目で見られることはなくなっただろうと。
 そして意外なことに、小説家という職業が自分に合っていたこともあり、それほど大谷は三成の呼び方一つのためだけに将来を決めてしまったことに悔いはなかった。最も、その気遣いは三成に言わせればくだらないとあっさり切り捨てられることだろう。
 彼にとって、大谷を刑部と呼ぶことは、例え時代がそぐわないとしても、変わらないことなのだ。今でも三成にとって、大谷は刑部でしかないのである。
 ともかく、大谷の影なる努力によって、三成が大谷のことを刑部と呼んでも差し支えない理由が出来たのであった。


 駅の目の前にあるスーパーで豆腐と葱と白菜と春菊とマロニーちゃんを買い込むと、その足で大谷の家へと向かう。肉や魚の類が一切買う必要がなかった。何故なら今日のメインはカニである。毎年二月の半ば頃になると、大谷の実家がある福井から越前ガニが送られて来るのだ。
 それを二人でカニ鍋にして食べるのは、三成が高校生になり、多少の外泊も許されるようになった数年前からだった。初めの年は、頑固としてシイタケを食わないと主張する大谷に、どうやって食べさせようかと手を変え品を変えたところ、以前のわれも気持ちもわかったろう? とせせら笑われた。答えに窮していると、シイタケが大谷の箸に攫われて三成の口へと押し当てられていた。仕方なく口を開けると、そのまま放り込まれてしまい、結局全てのシイタケを三成が処理することとなった。
 それ以来、三成はカニ鍋にシイタケを入れるのを諦めた。以前の大谷は、果たしてシイタケなど苦手であっただろうかと首をひねってみたものの、極力ものを食べようとしなかった自分の手前無理やり食べていたのかも知れないし、実のところそれほど嫌いというわけでもないのかも知れないと納得させた。今生になって嫌いになったという発想は、三成には毛ほども浮かばなかった。
 駅から五分ほど歩いた閑静な住宅街の中に、大谷の住む家がある。資料用の書籍がとにかく多いので、中古の一軒家を買い、そこを住まいとしている。三成と出会った学生時は、極普通にアパートを借りていたのだが、たった数年で中古とはいえ一軒家を買えるようになるのだから、われながら素晴らしいものよなと浮かれる大谷の喜びは理解できなかった。三成にとっては、大谷の匂いがあり、生活が伺えるなら、例え四畳半の部屋に住んだとしても何ら問題はなかった。
 呼び鈴を鳴らして待つこと暫し、玄関の扉が開いた。無警戒なその行動に、三成の眉根が寄る。ガラガラと引き戸が音を立てて、半纏を身に纏った男によって開かれる。
「よう来たな」
「貴様、何度言ったらわかる! 扉を開く前に誰が来たか確認しろ!」
 近頃は物騒なのだからと声を荒らげる三成を見て、大谷はくくと喉を鳴らした。
「物騒な男から、物騒などという単語が出ようものとはなんという皮肉やら。やれおかしなことよ」
「くだらん。上がるぞ」
「好きに致せ」
 勝手知ったる家とばかりに、三成は買い物袋をぶら下げて台所へと直行する。週に三度は訪問しているために、遠慮などは一切ない。泊まりこんでは直接大学へ向かうことも多いため、この家には三成の着替えも常備されている。そこまでするには、部屋を引き払ってこちらに住んでしまえばいいのにと常々大谷は考えているが、それでは主夫ではないかと激しく嫌がるのだった。この状態も通い妻のようだがなと客観的に大谷は判断しているが、わざわざ三成の機嫌を損ねるのは得策ではないため、口をつぐんでいる。
「カニはいじってないだろうな」
「勿論よ、ぬしの言いつけどおり触ってすらおらぬよ」
「本当だな?」
「われを疑うのか?」
 責めるわけでもなく、じっと三成を見据える大谷の視線にたじろぐ。
「……失言だった」
「そうよな、そうやって素直に謝れるのがぬしの良いところよ」
 呵々と機嫌よく笑った大谷は、鍋を取り出して水を張るとコンロに掛ける。そっと昆布を一枚沈めると「では後は頼むゆえ」と言い残して、台所から去っていく。一人残された三成は鼻を鳴らす。
「料理を手伝わない男が婚期を逃すそうだぞ」
「その時はぬしが嫁に貰ってくれればよかろ」
「誰が貴様のような妻など欲しがるものか」
 からかいを帯びた三成の口調は柔らかい。買い物袋を探ると、今買ってきた野菜を取り出して洗い始める。

 リズムよく鳴る包丁の音を背後に聞きながら、大谷は食卓にカセットコンロを準備する。ガスの残りがまたあっただろうかと、試しにツマミを捻ってみると、リズミカルな音の後に炎が燃え上がる。これを持ち出すのは一年ぶりだったが、問題なかったようだ。思い起こせば去年ガスボンベを三成と買いに行った記憶があるので、残っているのも当然のことだった。
 やることが無くなってしまった大谷は手持ち無沙汰に背後を振り返る。自炊を欠かさぬ三成の包丁捌きは、まな板と接する音の間隔から明らかだ。細かく、乱れることがない。
 思えば三成に初めてご飯を作ってもらったときには、あの三成が料理をするという、生産的な行為をすることに、ひどく驚いたものだった。以前は、自分が無理やり催促しなければ飯を取ろうとしなかったのに、変われば変わるものだとしみじみ思う。
 彼は、以前の自分と今の自分は同一であると信じているが、実際はそうではない。生まれ出た環境も違えば好みも変わる。あえて指摘はしないが、三成の食の好みも変わっているのだ。大谷が今生でシイタケを嫌いになったように、彼も白子やレバーが嫌いになっているのだ。
 まぁ以前はそのようなものを食べなかっただけかも知れぬがな、と鼻を鳴らす。大谷は何故自分たちが以前の記憶を持ったまま生まれたのか、以前と同じ名前、同じ容姿、同じ性格を持って生まれたのか、それを考えている。今生には果たして意味があるのだろうか。こうして三成と出会えたというのは、何かの意味があるのか。
 彼と出会ってから幾年が過ぎたが何かが起こるような気配は未だなかった。
「刑部、沸いてきたぞ!」
「ああ、左様か。先に昆布を抜いておけ」
 腰を上げて、台所へと向かう。その足取りには、先程までの苦悩など毛ほども伺えなかった。

 グツグツグツグツ。机の真ん中に置かれた鍋を相対して、三成と大谷はコタツに足を入れている。目は鍋の中でその身を揺らしているカニに集中していた。
「まだか」
「まだよ」
「……そろそろいいのではないか」
「まあ、待て。代わりにほら、そちらの白菜が煮えておるぞ」
「私はカニを食べたいのだ」
「生煮えで食べたいというのなら、止めはせぬがな。いつだったら、それで腹を壊したこともあったろうに、やれ、石田殿は胃が強くなったのか。それは重畳よな」
 からかい混じりの忠告を睨みながらも聞き入れ、三成はカニの側でグツグツと煮られていた白菜を直箸で器に移す。大谷がそれをちらりと見たが、注意することもせずに、菜箸でカニの甲羅をひっくり返す。
 送られてきたのは一杯であったが、二人で食べるには十分な量である。今も、鍋に入りきらずに投入を待っている足がいくらかあった。
 三成を見れば、はふはふと暑そうに白菜をちまちま食べている。目を眇めた。やはり三成がものを食べる様はいつ見ても良いものである。
 鍋で揺られ、いい色になった足を一つ菜箸で器に取りわける。物言いたげに三成が見てきたが、まだ白菜を食べている最中だったので、何も言わなかった。用意しておいた手拭きで手をぬぐい、白い湯気を上げる熱々の脚を関節と逆の方向に折り曲げる。
 パキリと心地良い音を立てて関節が外れ、半分へと分けられる。その片割れを器に戻し、残った方の脚に蟹フォークを突っ込み、身をほじり始める。
 グツグツと鍋が沸騰する音だけが部屋に響く。三成も大谷も一言も口を利かない。毎年の事といえど、この瞬間にはいつも気を遣う。身を崩さぬように綺麗にほじくり出すのは、中々骨が折れることなのだ。
 力を込めて殻に添ってフォークを滑らして身を剥離させ、しかし力を入れすぎるとあっさりと形が崩れてしまうために、細心の注意を払う。フォークを滑らしては角度を変え、再度動かす。二、三分程で、殻から綺麗な身が露になっていた。
 われながら良い仕事をしたわと惚れ惚れしながら、その脚を持ち上げ眺める。実に素晴らしい出来だった。
「刑部」
「ん。白菜食べ終えたか。全くぬしはほんに猫舌よな」
 渾身作の、剥いたばかりのカニ脚を、白菜をようやく食べ終えた三成へとあっさりあげてしまった。それに対して何の感慨も見せずに、三成はカニ脚に喰らいつく。獣のようにカニを食べる三成ほんに可愛い。大谷が目元を和ませていることなど気づきもせずに、三成はただカニを貪った。
「うまいか」
「ああ」
「左様か。また剥けるまで、何か食うておれ」
 そして器に取り分けていた、半分に割った脚を再度手に取る。こうして毎年届けられるカニの殆どは三成の腹へと消えていく。大谷が身の回りの世話をしなくとも、今の三成は衣食住に問題がないのだが、どうにも手持ち無沙汰であるらしく、必要でないというのにわざわざ世話をやくところがある。毎年届けられるカニも、その一環だった。
 しかし、今の三成は地に足をつけて生きている。未だ見つからぬ秀吉と半兵衛を見つけるために、人脈を広げ、生きるために寝食もしっかり取る。大谷と会えたことで、この世の何処かにいるのではという希望に満ち溢れている。生気に溢れている三成は実に良いものだった。こういった気分になれるのなら、戦いのないの世の中というのも悪くない。
「平和な世の中よな」
「どこが平和なものか! 未だ秀吉様と半兵衛様が見つからぬというのに、どうして安寧と暮らせるというのだ! 一刻もはやくお二人に再会したい……そして、私にどうか許しを……」
「左様か」
 やはり三成の根底は変わらぬ、今生でも太閤と半兵衛様にこだわるというとは。常々聞いている決意ではあるものの、何度聞いても良い気分はしない。鼻白みつつ、殻をほじくる作業に意識を集中させる。
「――ただ貴様が壮健な世なら、それほど悪くはない」
 思わず顔を見上げると三成はマロニーちゃんを探して、鍋に箸を突っ込んでいるところだった。今の発言には何の気負いもないらしい。面食らったような、調子が外れたような気分に苛まれた刑部の手先は乱れ、先程までと違って、幾分か殻の中に身が取り残されていた。

 こうして、バレンタイン代わりの毎年恒例の二人きりのカニ鍋パーティは淡々と過ぎていく。締めを雑炊にするか、うどんにするかでまた一悶着あるが、毎年大谷が折れるのもまた、恒例であった。
Written by BAN 0213 11

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