碁に纏わる話〜幼少編〜

 豊臣軍参謀である、竹中半兵衛は軍の将来を担う小姓達に碁を奨励していた。囲碁は軍略に通ずと、幼い頃から思考を養う目論見であった。
 小姓の一人である佐吉は、崇拝する参謀の命に違えること無く、空き時間を見つけては碁盤に向かっていた。その向かいに座る人物は必ず紀之介である。佐吉の癇癖が強い故に、長い間差向っていられる者はかの少年しかいないためだ。
 紀之介としても、自分より幼いながら筋の通った佐吉の愚直さを気に入っているため、余程の用事が無い限りは相手をしてやっていた。
 ところが、佐吉と紀之介の二人が碁を打つと、必ず紀之介が勝つ。快勝である。あまりの大差に佐吉はむくれ、紀之介へと当り散らす。とはいえ、殴りかかったり物に当たったりするようなことはせず、頬を膨らませて金色の目に光を灯し、ただジッと紀之介を睨みつけるのである。その目付きの鋭さには、まるで獣のようだと紀之介の背を粟立たせるものがある。しかし、そこは偏屈者として知られている紀之介のこと。おくびにも出さずに少年らしいまろやかな人差し指をピッと伸ばして、佐吉の膨らんだ頬へと押し込めるのであった。

 烈火のごとく怒鳴り散らし、足音高く去っていく佐吉だったが、暫くすると大敗したことなど忘れたように、また紀之介を碁に誘う。そしてまた紀之介が大勝する。佐吉が頬を膨らませる。毎度毎度その繰り返しであった。紀之介としては、普段年に似合ぬ振る舞いをする佐吉の、歳相応の児戯た仕草が可愛くてしようがない。
 以前にこの頬は果たしてどこまで膨らむのやら、との疑問を解消するべく佐吉の白石を総取りしたことがあった。これまでにない大差である。結果として、頬は膨らむだけではなく赤く染まり、その上ふるふると震える始末だった。他にも、普段は獣のように光る目に涙が浮かんでいて、今にも零れんばかりであった。これにはさすがの紀之介も慌てふためき、半兵衛から頂戴した菓子でもって、宥め賺して機嫌を直させた。しかし、己は泣く寸前の状態であるというのに、半兵衛様から頂いた菓子をぬしにやろう、と言ったところ、
「きさま、おそれ多くも半兵衛様から頂戴したというのに、それを自分で味わわずに他人に渡すとはいったいどういう了見だ! 半兵衛様のご好意をなんとこころえている!」
と説教を始めるのだから大したものよと紀之介を呆れさせた。崇拝ここに極まりである。よく回る口でもって佐吉が納得いくように説き伏せ、涙を引っ込ませるのに苦労したため、それ以後紀之介は佐吉との勝負で本気を出したことはない。
 ともかく、佐吉から碁を誘われればそれ即ち、愛らしい仕草を見られるということでもあったが、さすがに飽きが見えてきたのも否めない。大の好物といえど、毎日食べ続けていればその姿を見るだけでも胃腑が疲れてしまうだろう。
 三河から徳川の幼き当主が人質として送られて来て以来、佐吉の碁熱は加熱した。家康が半兵衛と碁を打ったというのを聞いたのが原因であろうと、紀之介は推察する。わたしでも半兵衛様と打ったことなどないというのに、三河の田舎者めと憤慨しながら佐吉が挑んだ一戦はいつものように彼の完敗であった。これでは半兵衛様と打つなど遠い話よと紀之介が内心呆れていることを、当の本人は知らない。

 その日与えられた役目も終わり、紀之介はゆっくりと自室で半兵衛から借り受けた軍略本を写本していた。知識は財産だからといくらでも本を買い与えようとする半兵衛に対して、いくら天下の豊臣といえど財は無尽蔵でなく、また写しとる作業の上で頭蓋に内容も収まりましょうと、紀之介が無理を言って行っていることであった。しかし、その写本は正確ではない。書き写す最中に、紀之介なりの注釈や疑問が書きこまれているのである。半兵衛から本を頂戴するとなれば、その扱いには気を遣わねばならない。こうして好き勝手できる気楽さもあって、紀之介は写本が苦ではなかった。
 思う存分筆を走らせ、時には書かれた内容に悩み存分に本を嗜んでいる最中、紀之介の耳に慣れ親しんだ足音が届いた。足音の主の体に見合う軽やかな音だ。迷うこと無く自分の元へ向かっている様を聞き、紀之介は筆を置いた。今日はこれまでだろうと、諦めを覚える。
「紀之介、碁を打つぞ! つきあえ!」
 廊下から顔を覗かせたのは、予想通りの佐吉である。僅かに顔が上気しているのは、彼なりにここまで急いだためだろう。本日で五連日の碁になるというのに、何故こうも急ぐ必要があるのかと紀之介はうっかりため息を零した。それを見逃すような佐吉ではない。足に纏わり付く子犬のように、きゃんきゃんと姦しい声を上げる。
「なんだそのため息は! わたしと碁を打ちたくないのか!?」
「いや、これは違うのよ。ぬしと打つ碁は格別の楽しさがある。その嬉しさから零れたため息というやつよ。ぬしは、喜色のあまりため息をついてしまうという経験はないのか?」
「む……」
 顎先に手を当てて、短い半生を振り返り始めた佐吉から、どうにか先程の嘆息は誤魔化せただろうか。うっかり本音が出たとしか言い様のない、紀之介らしからぬ詰めの甘さであった。
「わたしにはそのような覚えはない! それよりも碁だ!」
 誤魔化しは効かぬようだった。佐吉は勝手に部屋へと入り込み、片付けてあった脚付きの碁盤を引っ張り出す。また今日も、餅がごとく膨らむ頬を堪能すると思えば……。紀之介はもはや諦めの境地で、碁器を二つ取り出した。

 しかし、この日の紀之介はどこか冴えていた。先ほどまで、軍略本を写本していたことが彼の頭脳を働かせることになったのかも知れない。普通に打てば、自分が大勝してしまう。それならば如何にして差を付けずに佐吉に勝てるか尽力してはどうだろうか。惜敗ならばそれほど悔やまぬだろうし、むしろここまで上達したかと喜ぶやも知れぬ。彼は拗ねる佐吉も愛していたが、喜ぶ佐吉を一層愛していた。それに自分にとっても、彼の思考を読み、自分の出方に対してどう反応するのかを確かめる良い機会である。碁は軍略に通ずと、日頃から豊臣軍参謀である竹中半兵衛も言っている。これは素晴らしい閃きだと、紀之介はほくそ笑んだ。
「では、いつも通り置き石なしでよいか?」
「勿論だ! 不利なきさまに勝っても嬉しくもない」
 一度も勝てぬうちから大口を叩く様も、佐吉ならば愛おしいことよと目を細めつつ、紀之介は対面する少年の第一手を見守った。

 盤面の半分ほどが黒白の石に埋められた頃だろうか。佐吉は訝しげな表情を浮かべていた。常ならば、この時点で既に佐吉の白石を置く場所が無くなっていることもある情勢だというのに、今回は打てる場所がまだ残っているからだ。これでは普通の碁のようだと不審がる。もしや、紀之介は手を抜いているのだろうか。子供らしい丸い輪郭に似つかない鋭い切れ長の目を正面に向ければ、紀之介は眉根を寄せて深く考え込んでいる様子だった。表情は真剣そのもので、片手間で指しているようにも見えない。これはもしや、自分の腕前が上がったのだろうか? 臓腑から浮かぶ喜悦が佐吉の頬を緩ませる。碁とはこれほどに楽しいものだったのかと、初めて感じた気すらしていた。
 紀之介に再戦を申し込んでばかりいたのは、意地というほか無かった。碁というのは本来、地を数えどちらがより多く取ったかを競うものだというのに、紀之介との勝負は数えるまでもない状態になることばかりであった。佐吉は圧倒的な差を見せつけられて、黙って引き下がれるような精神を持っていない。むしろその差が大きければ大きいほど、その山を超えねばならないと固く決意する少年だ。そのため、何度も打てばいずれはその敗因も見えてこようと、猪武者のように再戦を申し出たのだ。そしてついに敗因を知らぬうちに見出していたらしい。ようやく掴んだ勝利への糸筋、離してなるものかと両頬を軽く叩き気合を込めた。盤面は残すところ半分である。

 勿論、佐吉自身が何かを掴んだわけではない。紀之介の目論見通りに事が運んでいるだけであった。しかし、彼が想像していたよりもずっと、佐吉の思考は読みづらく、盤面が思い通りにならなかった。紀之介の黒石を取らせるようにと、これみよがしに並べた黒石を無視された時は何が起こったのかわからなかった。自分の白石を並べ続ける佐吉に、ぬしは五目並べでもしておるのかと盤面を投げつけたくなった。どうしてこうなるのだ。紀之介の胸中は穏やかでない。本来ならば、この時点では佐吉の白石が優勢であるはずだった。後半、蜘蛛の糸のように張り巡らせた白石の隙間を縫って黒石を置き、かろうじで逆転をするはずだったというのに。
 わざと音を大きく立てて碁器の中から碁石を一つ取る。状況は不本意である、だが肺腑が沸いている。取れる手段の少ない時にこそ、計略が生かされるというものよ。小気味良い音を響かせながら、紀之介は盤面に黒石を置いた。

 そして暫くの後。
「いやぁ、惜しかったな佐吉。途中はさすがのわれも危うかったものよ。それにしても上達したものよな! いやはや感心カンシン。ぬしは上達が早いものだな!」
「……だまれ」
 盤面は、黒が優勢を占めていた。数えてみたところ、黒が一回り目多い。紀之介がつい自分の策に熱中するあまり、当初の目的を見失ってしまったのだ。今回こそは勝てると思っていただけに、いつもどおりの大敗に佐吉の落ち込み様は凄まじかった。耳あたりの良い言葉を並び立てる紀之介もなんの慰みにもならないようで、食って掛かる勢いすらなかった。明らかにやり過ぎたと紀之介は、珍しく反省する。そして、気に入らないが機嫌を直す究極の手段を取ることにした。
「ならばもう一戦いたそう! きっと次はぬしが勝つぞ。佐吉の上達は見事なものだからな。秀吉様も大層褒めておったぞ?」
「秀吉様が!?」
 ほうら食らいついた。また秀吉様よ。いくら崇拝しているとはいえ、目の前にいる自分の甘言を弄した慰めよりもここにはいない人物の名前だけで機嫌を直してしまうのは少々気にいらないものがあった。いや、少々ではなく大分である。その鬱憤を貼りつけた笑顔の下に隠し、さあさもう一度と佐吉を誘った。

 次もまた、紀之介が勝ちを飾ったが、先ほどよりは佐吉が取られた石は少なくなっていた。負けという結果にむくれていた佐吉も、その数を指摘されれば目を見開いて真ん丸の形になった。そして、彼から再戦を希望するようになり、勝負を重ねれば重ねるほど、佐吉が手に入れた地の数は多くなっていく。そして本日四戦目にて。
「やった!一目差まで来たぞ!」
「ほらわれが言ったとおりであろう? ぬしは上達が早いと。われが嘘をつくとでも思うたか」
「ばかをいうな! 紀之介がわたしに嘘など付くものか!」
 さもあらん、と紀之介は目を細める。段々と佐吉の思考を学んでいき、ついには掌握することに成功した。佐吉が白石を伸ばすであろう先に黒石を配置し、絡め取らせる。大量の黒石を纏めて取れたときに歓声を上げる佐吉には、紀之介の胃の腑を温かくさせた。これでよい。この黒石は、近い将来に佐吉が上げる敵の首だ。自分が整えた策の上にて佐吉が誰よりも戦果を上げれば良いのだ。
 しかし策謀家を自認する紀之介も、佐吉の次の言葉にはさすがに泡を食った。
「ここまで紀之介に肉薄するようになったことを秀吉様にお知らせしたい! つぎは秀吉様や半兵衛様の前で打とう」
 歴戦の猛者を前にすれば、己の矮小な策など簡単に見破られてしまうだろう。もしも佐吉に告げられてしまえば、この喜びに水を差してしまうし、自分を弄んだのかと怒りを買い嫌われてしまうかもしれない。紀之介は考えてもみなかった可能性に、血の気が引いた。小姓達で集まれば紀之介より優れた頭脳を持つものなどいないが、所詮は子供という枠で囲われただけに過ぎない。豊臣軍には今の紀之介よりも優れた参謀がいるのだから。
「秀吉様や半兵衛様はお忙しい方だからの。せめて、われに勝てるようになってからお見せしてはどうだ? 佐吉が負ける様を見てがっかりさせるのは申し訳が立たぬわ」
「ばかをいうな! 秀吉様に半兵衛様は、わたしが負けたことで気落ちされるような方々ではない。むしろ、きさまの腕前に惚れ惚れされるだろう」
 素っ頓狂な声を上げるのを、かろうじで紀之介は堪えることが出来た。佐吉から遠まわしで褒められるとは思ってもみなかったことだ。腹に抱えるもののない佐吉の言葉は常に明け透けで、紀之介の肺腑に真っ直ぐ響く。
 ざわめいた胃の腑を静めるために、意味もなく碁石をかき混ぜてみる紀之介であった。
Written by BAN 0115 11

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