みかんのはなし

 日が沈み、燭台に炎が灯されて暫く。大谷吉継は書に勤しんでいた。日が暮れてからの読書は目を悪くすると三成に注意されているのだが、翌日の戦に備えて夜更けまで書き物をしているなど四六時中であったので、その注意も右から左だった。
 ある時三成に、貴様は追い詰められるように書を嗜むのだなと言われたことがある。何を思っての発言かは知れなかったので、いつもの如くに誤魔化した大谷だったか、三成のその言葉は真実を突いていた。病の影響からか、彼の視力が日にしに悪くなっているのが大谷を駆り立てるものの正体だ。手足が不自由になるにつれて目まで見えなくなっているのだから、業病とはまこと厄介なものよと大谷はひっそりと哂う。知識を蓄えておけば、近い将来盲いても三味線弾きになる必要もない。ゆえに今日も彼は読書を欠かさない。

 日ノ本の中心の大坂といえど、冬の寒さはなかなかに厳しい。足は先日手に入れた面妖な輿にて温められているのだが、上半身はそうもいかない。火鉢を炊いているのに、かじかんでいる手をさする。布に遮られた己の体温ごときで、手が温まるとは思えなかったが、慣習のようなものだ。昔、病とは無縁だった頃にはこうするだけでも寒さを吹き飛ばせたものだったが。
 浮かんだ愚痴に、大谷は苦笑する。寒さで気が滅入ったか、我ながら女々しいことよ。彼にとって過去は捨て未来は呪うものだ。健やかだった自分など唾棄すべき対象だった。

「誰ぞ、炭を持って参れ。寒うてかなわぬ」
 声をやや張り上げ、どこかに控えている側付きの者に命じる。本丸御殿の中では外れに位置するこの部屋も、それが幸いして薪炭が置いてある場所にほど近い。
 足の不自由さが目立つようになったころ、大谷は太閤から本丸の一室を居住区として与えられた。三の丸にあった屋敷から出仕するより遙かに楽になったものの、身分に見合わぬ行為へのやっかみに悩ませられると当時はため息をついた。しかし時を同じくして、三成もまた太閤に一室を賜る。一屋敷から一部屋へと居住面積が激減しても出仕の楽さに軍配に上がる大谷と違い、健康体の三成が何故窮屈な思いをするのかと不可解でならなかった。その行為が自分のためであったと気づくのは、悪しき噂を立てた者どもを粛正し傷ついた三成の拳を見たときだった。なるほど、この男が側にいれば、我の存在など霞のごとくよ。しかし、三成の好意は大谷には不可解この上なかった。

 只今との応えをあげて側付きが足早に去っていって暫く。戻ってきた足音はまるきり別人のものに変わっていた。やれ、忙しくなりそうだと今まで開いていた本を閉じるのと障子が開けられるのはほぼ同時のことだった。
「刑部、炭を持ってきたぞ」
「やれ三成よ、ぬしに頼んだつもりはなかったのだがな」
 大谷の予想通り、障子を開けたのは石田三成であった。直立し、片手で一抱えほどの陶器を抱え、もう片手は障子の取っ手に掛かっている。障子を開けるのに座ってから、などという通り一遍の常識を三成に説くのはとうに諦めている。彼の常識というのは、太閤とその腹心たる軍師にしか働かないのだ。
 三成は後ろ手で障子を閉め、火鉢の側でしゃがみ込む。灰となった炭を火箸で崩してから、新しく持ってきた炭を移す。その手つきは慣れたものだ。三成が太閤の小姓として働いていたのはそう遠い話ではない。それがまた大谷のため息を誘う。これが西軍総大将のやることかと。
「……そなたが我に関する雑用を奪うのは今に始まったことではないがの。それにしても炭三つとは取りすぎではないか?」
「何を言う! あの者は炭一つきりしか貰ってこなかったのだぞ!? 全く、私が秀吉様の小姓をしていたときに、あんな気の利かぬ同僚がいたら殴り飛ばしていたところだ」
 太閤殿下と一介の武人くずれとで炭の数を比べるのではないわとも思ったが、そういった機微が理解できないのが三成であると理解しているので、黙ったまま三成の作業を見守る。赤々と燃える炭が三つも火鉢に移されたおかげで、部屋は暖まり始めていた。寒いよりは暖かいほうが良いに決まっていると、大谷は三成の好意を享受することにした。
「ご苦労、三成。こっちに来やれ」
 巻き損ねた細布が腕の仕草に合わせてヒラリと舞う。それを見咎めたように三成の目が眇められる。さてはこやつの用事とは布替えであったか、ケッタイなことよ。目の動きだけで来訪の意図を察した大谷は、三成が口を開くよりも先に懐柔することを決めた。
 三成は夜に布替えをすると言って部屋を訪れることが多々ある。自分で出来ること、ましてや己の恥部ともいうべき箇所をいくら三成といえど他人に触れさせたくないのだが、そういった機微が三成には伝わらない。よって、いかに三成の頭をそこから反らすか。夜半の来訪の度に、大谷の中で密かな駆け引きが行われていた。
「ここに座れ三成。暖かいぞ? 足は伸ばして構わぬからな」
「……なんだこれは」
「これはコタツよ。中に火鉢を仕込んである故、長いこと触れていると火傷せんとも限らぬから気をつけよ」
 決して広いとは言えない室内の中央に、四辺が等辺の机台があり、その足は布団で覆われている。その布団に大谷の腰から下が吸い込まれていた。
「奇怪な……」
「まあそう言うな。これがナカナカ役に立つ代物よ」
 三成は渋々といった様子で大谷の向かいに腰を下ろし、恐る恐る足を布団に差し入れる。袴がかさばり邪魔そうだったが、足をすっかり布団の中に納めてしまえば、三成の頬もどこか緩んで見えた。
「ほう……」
「な、よいであろう?」
「そうだな、まるで足だけ湯殿に浸かっているようで悪くない。……秀吉様にも教えて差し上げたかった……ッ!」
 また始まりおった。太閤の名前を叫びながら天板に顔を突っ伏せるのは止めて貰いたいと、三成に気づかれないようにため息をこぼす。この後またあの忌まわしい小僧の名前が三成の口から出るのかと思えば、ため息の一つや二つ付きたくもなるものだ。何故仮にも只ならぬ関係を築いている者と二人きりだというのに、他人の名前を聞かねばならないのか。それより先になにか、三成の気を反らせるようなものがないかと、周囲を軽く見回す。すると積まれた書と書の山の間に転がっていた橙色の球体に目が止まった。これよ。知らずのうちに大谷の口角が上がっている。指先をクイと軽く曲げて念を込めると、それはふわふわと見えぬ力で浮き上がる。
「三成よ、これを剥いてはくれぬか」
 突っ伏したままの三成の頭蓋の上で念をほどけば、自然の力に従い、そのまま落下する。かくして、三成の口から家康の名を出させることなく、三成の興味を自分に向けることに成功した。ただし、若干の怒りは伴っていたが。
「刑部、何をする!」
「すまぬな、少し手元が狂った。なんせ手がかじかんでしまっているのでな。わざとではない、許せ」
 勢いよく頭を上げ、目をつり上げて刑部を睨みつける三成。直前までその心中は太閤を殺した家康への恨みでいっぱいだったのだろう、刑部に見せる目つきとしては珍しく苛烈なものだった。しかし、手がかじかんで、と言いながらさりげなく腕を震わせる大谷の小細工もあって、すぐにその怒りもしぼむ。大谷の計算通りだった。腐っても豊臣軍参謀、こと三成に関しては計算違いというのはなかなか起こり得ない。
「……自分で剥けばいいだろう」
「ぬしは、我に染色屋になれと? 確かに蜜柑からは良い山吹色が得られようが」
「布なら後で私が替えてやる」
 その話題から離れようと思っていたのに、三成にしっかり言及されてしまった。策士策に溺れるとはこのことよな。家康から考えを遠ざけるつもりが、当初の目的を思い出させてしまった。一度口に出した以上、三成は必ず実行するだろう。此度は我の負けよと、本人の知らぬところで勝手に行われていた勝負が終わりを告げる。
「この指では、繊維が取りにくいのよ。我はあれが嫌いでたまらぬというのに」
「そういえば、そうだったな」
 ようやく納得したらしい三成は、先ほど自分の頭から転がっていった蜜柑を探して頭を動かす。すぐに見つかった橙色の球体は、その形状が災いしてか思いの外遠くにまで転がっていた。三成の手が届くか届かないか、という距離だ。舌打ちを一つ漏らし、下半身をコタツに入れたままにして腕だけ伸ばす。が、ほんの指先が触れるものの、転がる気配もない。ただ表面を撫でるだけだ。
「横着するとは三成らしからぬな」
「黙れ」
 からかう大谷の声も一刀両断し、三成は少しずつ上体を倒していく。コタツから足を出して、歩けばなんてことのない距離である。是が非でもコタツから出ないつもりのようだ。入る前は眉をしかめていたというのに入った途端にこの様かと大谷がひっそりと笑う。しかし、その笑みは人の不幸を喜ぶようないつもの邪悪なものではなかった。ごく普通の人間じみた温かいものだったが、彼に背を向けている三成には見えなかったし、もちろん大谷自身がその表情に気づくわけもなかった。
「よし」
 ほとんど上体を畳につけるかといったところでようやく手のひらに蜜柑が収まる。背筋だけで上体を起こした三成は、彼の手には不釣り合いなそれをしげしげと観察したあと、頂点に指を差し込んだ。
「この蜜柑は一体どうした」
「長曾我部からの土産よ。全くいらぬ気遣いばかり回る男よな」
「あいつのか……」
 蜜柑を見ながら長曾我部を思い返しているのか、三成の手が止まる。大谷にはそれが面白くない。他の男のことなどと。
「蜜柑はまだか三成」
「急くとはお前らしくないな」
 声を掛ければ、我に返ったように再び指が動き出す。みるみるうちに皮が剥かれていく。哀れ長曾我部よ、我が一声掛ければそなたの居場所など三成のどこにもないのよ。無惨に皮を剥かれていく蜜柑の様から、四国を壊滅された無惨な長曾我部を思い浮かべ溜飲が下る。実によい気味よ。
「出来たぞ」
 あらかたの繊維を取り終え、半分に房を割る。そこから更に一房を取り分けると、身を乗り出し大谷へと差し出した。しかし大谷はそれを受け取らずに、口を開けて無言の催促をする。おどけた仕草に三成は顔をしかめたが、黙って蜜柑を摘んだ指を大谷の口内へと入れる。
 途端に大谷は口を閉め、三成の指を傷つけぬように蜜柑だけに歯を立てる。果汁が口内へと広がり、甘いながらも柑橘類独特の酸いが舌を伝った。悪くはない味だった。舌を使い、蜜柑を三成の指から離すと大して咀嚼もせずに飲み込んでしまう。
 喉が動いたのを見て、用は済んだとばかりに腕を引こうとする三成を、大谷は目で制する。念を込めたわけでもないが、指を口内に留めたまま動きを止める素直な三成に心が緩む。
 果汁に汚れた指を清めるため、彼の人差し指と親指を丹念にねぶる。指の腹は蜜柑の味が色濃い。そこを重点的に舐めた後、舌を指先へと動かす。伸びた爪が引っかかり、嫌悪が頭をもたげた。これは明日の朝にでも切ってやらねばやるまいて。自分の身の回りを気にしない三成の身なりを整えるのは、大谷の役目だ。先ほど、大谷自身の世話をやく三成に対して呆れていた事実は、彼の脳裏から忘れ去られていた。
 指先から指股まで散々にねぶり続けてようやく満足した大谷が三成を解放するころには、彼の瞳は存分に呆れを物語っていた。しかし行為を非難することもなく、淡々と乗り出した上体を元に戻す。
「蜜柑の味よな」
「当たり前のことを言うな。……もう一つ食べるか、刑部?」
「そうさな、頂くとしよう」
 了解の意で首を縦に振り、再び房を切り取る三成の指は己の唾液で光っていた。それを見て、大谷は沸き上がる衝動に目を眇めるのだった。
Written by BAN 1227 10

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