ルルーシュ様の出会いからもう幾十年幾百年たったことだろうか。幸いにも私はそれだけの時を崇高してやまない主と共に過ごせることができた。彼の悲喜こもごもを側でずっと見守り、時には支えたりもした。
しかしいつの頃からか、ルルーシュ様は異常な行動をとるようになった。一見すると正常にしか見えない。その異常さは私にのみ発揮された。
「おはよう、ジェレミア」
「おはようございますルルーシュ様」
ルルーシュ様は起きられると、私の頭に手を伸ばす。手が届きやすいように身をかがめると、存分に頭を撫で回された。髪型が乱れてしまうな、などとは思いもしない。ただルルーシュ様に触れてもらえるのがとてつもなく嬉しい。
その後ルルーシュ様は手を首筋に滑らせ、背中へと流れる。それを受けて、私は彼の前で四つん這いになった。何度も背中をかき混ぜるように撫でられた後は、ゴロリと身を倒し、腹をお見せする。嬉しそうに顔を綻ばせるルルーシュ様を見ると、私も幸せだ。
腹を撫で回したルルーシュ様は、名残り惜しそうに手を離された。
「さて、ご飯を用意してやるか」
「ありがとうございますルルーシュ様」
ご自分のよりも先に、私の朝食を用意する姿にはただ申し訳なく思う。始めのうちはひどく戸惑ったその行為も、彼が喜ぶのなら、と甘んじて受けるようになった。それでもいたたまれなさは消えはしない。
ザラザラと、硬質なものが皿を滑る音がキッチンから伝わってくる。楽しそうに口ずさむ鼻歌が胸を温かくさせる。この生活が歪みそのものだとしても、ああして彼が楽しそうにしているなら、それで私も幸せなのだ。
深い皿を持ったルルーシュ様がリビングに姿を現した。
「待たせたな」
「いいえ。いつもありがとうございます」
「待ちきれなかったのか? 全くこらえ性がないな」
呆れたようにため息をついた彼は、皿を床に置く。そしてその後こう告げた。
「おすわり。そして待て、だ」
並々と注がれたドックフードの前で、私は床に直接座り込んだ。
いつの頃から、ルルーシュ様は私を犬であるように扱っていった。始めのうちは、自分の奇行に気づいては私に謝罪していた彼だったが、次第にその頻度が低くなっていった。
跪き、皿の前で暫し待つ。はるか昔、皇族ではないのだから跪くのはやめろと禁止されてしまったその行為が、今では許されるのは少し、嬉しかった。
「よし、食べていいぞ。よく我慢できたな」
髪をかき乱して、褒めて称えるルルーシュ様。彼の目には、真実私が犬だと見えているのだろう。元々人間をやめた身だ、彼の側にあれるのなら、事実犬であったとしても何も困りはしない。
並々と注がれたドックフードの粒を一つ摘む。この生活には慣れたものだったが、未だにこの味には慣れなかった。
茹だるような暑さの中、ルルーシュ様は買い物に行かれた。付いて行こうかと彼にまとわりついて見たのだが、(なにせルルーシュ様に私の言葉はワンワンとしか聞こえないようなので、話しが出来ない)ハエを追い払うようにあしらわれて、留守番を命じられた。
といっても、彼の後をついて回ることもできた。なにせ私は犬でなく、立派に動く手を足があるのだから、締められた鍵を開けることなど容易だ。けれども、私の目の前には未だドックフードの顆粒の山がある。捨てても、ドックフードを元の袋に戻しても、目ざといルルーシュ様には気づかれてしまう。訝しげに首を捻るルルーシュ様はとても可愛らしいものだったが、そういった行為は彼の愛情を裏切るようでよくないのではないのかと思い、結局地道に食べることにしている。
ルルーシュ様がいなくなった家で一人、ドックフードを齧る。誰の目もないので、のびのびと椅子に腰掛け、足を組むことができた。彼の目に、こうした人間じみた動作がどう写るのかはわからない。けれど、一度試してみようという気は起きなかった。
「ただいま戻ったぞ」
「お帰りなさいませ!」
あれから長い間を掛けてドックフードを完食した私は、ルルーシュ様の声に玄関へと駆けていった。日に焼けると痛いから、とルルーシュ様は夏でも長袖を欠かさない。そのせいで余計に汗をかくのだろう、髪はうっすらと湿っており、首筋には汗が伝っている。
「今日も熱くてたまらんな」
「そうでしょうね。よろしければシャワーを浴びられてはいかがでしょうか」
「鶏肉を買ってきたから、何より先に冷蔵庫に入れないと。痛むと悲惨だからな」
私の言葉が届いているのかいないのか。スーパーのビニール袋からはみ出したネギを取り出しつつ、キッチンに向かわれる。おそらく、買ってきたものを一通り冷蔵庫に入れてからシャワーを浴びられるのだろう。私が言うまでもなく、彼はきれい好きなのだから。
リビングには西日が差し込みつつあった。これにカーテンを引くくらいは、犬の自分でも許されるだろう。冷蔵庫に屈み込んでいる彼に背を向けて、窓辺へと足を進めた。
やはりその後シャワーを浴びられたルルーシュ様は、ひとしきり涼むと夕食の準備を始められた。何かを炒める、良い香りがキッチンからリビングへと広がる。ルルーシュ様は何を食べられるつもりなのだろうか。鼻を鳴らして匂いを嗅いでみても、皆目見当もつかなかった。
「ジェレミア起きろ、夕飯だ」
いつの間にか寝入ってしまった私は、彼の声で目が覚めた。そうすると、当たりにひどくよい香りが漂っていることに気づいた。これは、カレーか? 匂いの出所を探してみると、テーブルに置かれた丼に気づいた。これは恐らく、ルルーシュ様の好物のカレーうどんだろう。こんなに暑いのに、わざわざ熱いものを食べられるとは、それほどまでに好きなのだろうか。二つ並ぶ丼を見てつらつらととりとめのないことを考える。
「さっさと座れ。主に飯を作らせて自分は寝ているとはいいご身分だな」
「申し訳有りませんルルーシュ様」
不甲斐なさに心から侘び、腰を折ってルルーシュ様に頭を下げると取りあえずは満足したようで、鼻を鳴らされた。そして彼が椅子に座ったのを見て、私もその向かい側に腰掛ける。彼とこうして食卓を囲えるのは年に二度の貴重な機会だ。
「さっさと食え」
「はい、頂きます、ルルーシュ様」
見事に盛り付けられたカレーうどんは三つ葉がまず目を引く。そして一口サイズに整えられた鶏肉と同じ大きさで斜めに切りそろえられたネギ、それに細く切られたタマネギが主な具だった、
犬にタマネギを与えてはいけないことを、聡明なルルーシュ様が存ぜぬはずはない。それを知っていても、悪意で犬だと思っている私に与えるはずもない。そして今日は8月2日。つまりはそういうことなのだ。
「食後にはオレンジを食べよう。冷蔵庫に入れてあるから、後で切っておいてくれ」
「かしこまりました」
不敵に笑うルルーシュ様は、今日もとても美しかった。
Written by BAN 0802 10