こむぎのはなし

 イタリア半島は例年にない悪天候に見舞われていた。ここ10年の内では最も気温が冷え込んでいる。日照不足は育ち盛りの穀物や野菜を直撃し、イタリア兄弟、特に農業が主たる産業のロマーノの頭を悩ませた。
 ロマーノの家にやってきたヴェネチアーノは陰鬱な表情を浮かべていた。エスプレッソを入れたロマーノに対する礼にいつもの明るさは伺えない。しかしそれに鷹揚と頷いたロマーノも似たような表情だった。
 クリーム色のまだ新しい木製の机の向かいに腰掛けた兄弟は各々が持ってきた資料を、デミタスカップを避けるように並べていく。それらのデータは近年のこの時期の平均気温をまとめたものであったり、過去にあった異常気候の際の収穫高を示したものであった。資料を読み込んでいくロマーノの眉間にはくっきりとした縦じわが刻まれ、ヴェネチアーノの眉尻は垂れ下がっていく。
 どうもよくない状況だった。中でも二人を悩ませる一番の問題は毎日の食事に欠かす事のできないパスタの原料、デュラム小麦のことである。
「どうしよう兄ちゃん……」
「どうするったって……備蓄はどれだけあるんだ?」
 これくらいかな、と示したデータには去年収穫された小麦総量の数パーセントが記載されていた。勿論これと今年大幅に減少する収穫量をあわせたところで、一年分を賄っていくのは不可能である。二人は同時にうなり声をあげた。
「パスタ食べないでピッツァだけ食べて一年暮らすっていうのは……」
「却下に決まってんだろ却下!! 一年もパスタ食えないなんて拷問じゃねえか!」
「だよね〜俺も無理だよ〜」
 ヴェネチアーノがため息をこぼした。本来なら二人には食糧難であろうと優先的に食料は届けられるので、こうして頭を悩ませる必要はどこにもないのだ。国の化身である二人を飢えさせてはならないとの配慮によるものだがしかし、自分たちが腹を満たす一方で腹を空かせる誰かがいる。その事実にヴェネチアーノは心を痛め、兄を誘ってこの場を設けることにしたのだ。難しいことは官僚が決定するが、少しでも何かの役に立てられるようにとの想いがロマーノも動かした。
「やっぱさ、輸入するしかないんじゃないかなぁ……」
 ため息混じりのその言葉に、ロマーノは目を剥いた。眉をきっとつり上げ、拳を握りしめて机に振り下ろす。その衝撃でエスプレッソの入ったカップが踊り、ヴェネチアーノは短く悲鳴を漏らして肩を跳ねさせた。
「てんめぇ、ふざけんじゃねーぞ! 輸入ってことは俺にイタリア半島産以外のデュラムを口にしろって言うのか!? そんなのはデュラムじゃねぇ、デュラムの形をした何かだ! それにそんなもので作られたパスタを俺はパスタと認めはしねぇぞ!」
 唾を飛ばしながら激高する兄の気迫に少々怯んだものの、ヴェネチアーノも譲れないところがあると机の下で拳を握りしめながら口を開く。
「でもさ兄ちゃん、フランス兄ちゃんのワインのこと思い出してよ。フランス兄ちゃんたちだって、ヨーロッパ種以外のブドウで作られたものはワインじゃないって言ってたのに結局それは病気でみんなやられて、今じゃアメリカのところのブドウを接ぎ木してるじゃないか! それでもフランス兄ちゃんのところのワインは美味しいよ!」
「でもそれは昔の味じゃねぇ!」
 とっさに言い返したことが、暗にフランスのワインを認めていると示す内容だったことに気づいてロマーノは一つ舌打ちをする。
「……あれは不幸な病気の流行のせいであって、今回の日照不足とは関係がないだろう」
「俺はそうは思わないよ」
「んだとぉ?」
「俺たちはよそのものと配合させず、俺たちの小麦を大事にしてきた。だから昔と同じ美味しい味だよ。でも純血を保ってきたってことで一つの外的要因にはみんなそろってものすごく弱いじゃないか。だから今みたいにいつもと違った温度だったり天気になると途端に小麦みんながだめになっちゃう。これはフランス兄ちゃんのブドウと同じだよ、違う?」
 違わない、弟の言ってることに間違いはない。ロマーノはわかっているが、これまで代々受け継がれてきたものを放棄するというのはとても難しいことなのだ。すっかり冷めてしまったエスプレッソを飲んで、少しでも時間を稼ぐ。稼いだところでどうにもならないけれども、ヴェネチアーノの言葉の意味するところを認めるのには勇気が要った。
「俺も本当はずっとこの味でいたいよ。だってこれは爺ちゃんが食べたものと同じだし、消したくなんてない。でもフランス兄ちゃんのところみたいに全滅させてしまうくらいだったら、50%や25%、それよりもっと低くなってでもこの味の名残を未来に繋げてやりたいと思うんだ。……カナダのところのデュラムに、寒さに強い種があるんだ。いきなり全部じゃなくてもいいんだ、最初はちょっと、ちょっとだけ交配させてみよう?」
 ヴェネチアーノは懇願するように続けた。彼の言葉もまた嘘ではない。本心では現状のままでいるのが一番いいとわかっていても、それではダメなのだとわかっているのだ。そしてそれはロマーノにも言えることだった。
「カナダの、アンバーデュラムは俺たちのものよりタンパク質が多いって聞いたことがある。だから普通に交配するとなると、グルテンが多くなっちまうから、少ない品種と掛け合わせるのがいいかもしれないな……」
「兄ちゃん……」
「俺だって、一応調べてたんだよ。このままじゃダメだってこともわかってたさ。でも踏ん切りがつかなくてよ。――お前が言ってくれて、助かった部分もあるかもしれない」
 もごもごと口ごもりながらつぶやくロマーノはヴェネチアーノにそっぽを向いていたが、そんな彼の仕草にヴェネチアーノは花開くように表情を綻ばせる。沸き上がる感情のまま机ごしに抱きつこうを腕をのばしたら、「うぜぇ」とはたき落とされヴェーと鳴くはめになったが。
「じゃあバカ弟、お前さっそくカナダに連絡をとれ。今年のパスタの分と研究用に大量輸入だ!」
「アイアイサー!」
Written by BAN 1112 09

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