吸血鬼っぽいもの

 ステンドグラスに差し込む光は弱くなり、辺りを支配しようと闇が広がりつつある。そろそろ時間だった。
 教会の最奥に設けられた三連の段の最上部。本来は祈りのために使われる場にルルーシュは横たわっていた。赤い絨毯が引かれているので石造り特有の底冷えするような冷気が直接伝わることはないが、ルルーシュの体の直ぐ下には更にジェレミアの白と淡紫のジャケットが敷かれていた。いかに絨毯があるとは言えど、直接床に寝かせることへの抵抗はあったのだろう。しかしその気遣いは今の彼には用を為さない。
 ジェレミアは横たわる主から一つ下の段に跪くと、彼の手を両手で取り握りしめた。しかし冷たさをジェレミアに伝えるばかりで、在りし日に繋がりあった熱は最早そこにはなかった。
 この数ヶ月の間にすっかり見慣れた皇帝服だったが、いま見慣れぬ色で胸を染めている。少しくすんだ赤こそが、彼の死を主張している。
 ジェレミアは極力そちらから目を逸らし、自分の熱を分け与えるかのようにただ主の手を包み込む。
「ルルーシュ様……」
 何かに祈るかのようなその真摯な声を聞くものは誰もいない。先ほどまでルルーシュを痛ましげに見つめていたC.C.は、耐えられそうにないと告げると外へ行ってしまった。ジェレミアはそれも致し方ないように思える。自分とて、主が――。弱弱しくステンドグラスの意匠をルルーシュの顔に映し出していた西日が終に消え失せた。
 ピクリ。握った手に、微かな感覚を得たジェレミアは暗く沈んでいくばかりの思考を切り上げ、土気色をした主の顔に即座に目を向けた。よくよく見れば瞼が震えている。ゆっくりと、しかし確実にルルーシュの高貴な紫色の瞳が露わになっていく。ジェレミアはそれに合わせて歓喜と絶望が己の胸に広がっていくのを感じたが、相反する感情を持て余してしまい、ただ手のひらをそっとルルーシュの頬に添えた。
 時間をかけて瞼を開いたルルーシュはしばし天井を見つめたまま呆けていた。処刑場へと向かう大通りで計画が遂行されて意識が途絶え、再び眼を開けたらまったく違う場所にいるのだ。それも無理のないことだった。何より、再び目が覚めたこと自体に放心しているのかもしれなかった。
「ご気分はいかがですか、ルルーシュ様」
「……ジェレ……ミア……」
 声を掛けられたことで初めてその存在に気づいたのだろう、緩慢にジェレミアに向けられたルルーシュの目が僅かに見開いた。
 彼の声はひどく掠れていた。数十時間前に息絶えてから、今まで声帯は使われなかったのだから当然のことだ。そんな情けない声でもジェレミアは笑うことなく、まなじりに涙を浮かべて彼の頬を何度も撫でた。何かを確かめるように慈しむその手つきは優しい。気持ちよさそうに再び瞳を閉じたルルーシュが、熱い、とこぼした。その何の気無い言葉に、だがジェレミアは手を止めた。
 急にジェレミアの動きが止まったことで、ルルーシュはいくつかのことに察しがついた。ジェレミアの手を熱いと感じるのは、彼の体温が高いか、ルルーシュの体温が低いかのどちらかしかない。ジェレミアはサクラダイトが仕込まれているとはいえ、その体温は人間のものとほとんど変わりがない。また目を赤くしているが、頬や首が赤く腫れていることもなかった。つまり、ジェレミアは平熱であって異常があるのはルルーシュ自身なのだと。どうあっても出血死するあの状況で意識が途絶えた後にこの状況。そしてギアスなんていう児戯の妄想じみたものが存在するこの世界の理。
 ルルーシュは一つの結論を出した。
「俺は、人では、ないのか」
 嫌悪するでもなく、驚愕したふうでもないルルーシュの漏らした言葉に、ジェレミアは何も言わずに彼の顔から手を離す。二人の間に静寂が漂う。ルルーシュが呼吸(らしきもの)をゆったりと二度繰り返しても沈黙は続き、主の言葉に応えもしないなど滅多にないジェレミアの行為を訝しげに思った彼は再び瞼を開けた。
 ジェレミアは、泣いていた。声を上げることも嗚咽を漏らすこともなく、涙が頬を静かに伝う。ルルーシュは彼の涙を三度目にした。一度は彼が過去を吐露し、自分に忠誠を誓ったとき。二度目はゼロ・レクイエムの全容を告げたとき。何故あなたがなさる必要があるのですか、と二人きりになったときに縋りつかれた。そして、これが三度目だった。
 先ほどのジェレミアの行動をなぞるかのように、ルルーシュも己の手をジェレミアの頬に伸ばす。流れる涙を拭ってやりたかった。しかしその手は届かなかった。触れる寸前にジェレミアがすっと立ち上がり、二歩分の距離をとって体を遠ざけてしまったのだ。
「ジェレ、ミア!」
「は、はい!」
 とっさに沸いた感情のまま彼が掠れた声で名前を呼ぶとジェレミアは弾かれたように顔をあげた。その拍子に新たな涙がこぼれて頬を伝ったが、今度はルルーシュも拭おうとせずまた、ジェレミアも動かなかった。
 ルルーシュの柳眉はつり上がり、瞳は苛烈な熱を帯びている。頬が赤く染まってさえいればジェレミアがルルーシュの生前よく目にした表情と違いはなかった。
 謝らなければならない、ジェレミアは思ったが彼にどう詫びればいいのか、その考えが全く浮かばなかった。私欲で陛下の、ルルーシュ様の人間としての尊厳を侮辱した愚かな男の私がどう弁解すればいのだ。ジェレミアは正面からルルーシュの視線を受け止められず、目を伏せた。
 それがルルーシュの眉間に一層皺を寄せることとなった。出来ることならルルーシュはこの仰向けのままの姿勢であっても、声を荒げて叱りとばしてやりたかった。考えていることは既に察しがついている。自分の言葉を聞く前に一人合点して悲観したり落ち込んだりするジェレミアのところは好きではない。どうして俺の言葉を聞かないのだと、また怒りが煽られた。
「いいから、とっとと、事情を話せ」
 簡潔かつ、わかりやすくだ。たった数言話すのにも疲労を覚えたルルーシュは囁くように付け足した。その囁きを聞き漏らさずに応えを返した忠臣を見届けると、すべての力を抜くようにゆっくりと再度瞼を下ろした。

 どこから話せばよいのでしょうか、と口を開いたジェレミアは先ほど主が言った簡潔にという言葉を忘れてしまっているかのようだ。しかしルルーシュは眉を顰めるだけで、何か言うこともなかった。
「私は貴方から計画の全貌を聞いたとき、何とかして貴方を助けることが出来ないかとずっと考えておりました。クルルギ卿が陛下と常に一緒だったので、護衛から外れて文献を漁ってみたりもしました。もっとも、首都が壊滅しているのでこれは無益なことでしたが」
 肩をすくめたジェレミアだったが、ルルーシュは依然として目を閉じて横たわっていて、おどけた彼の仕草を見るものは誰もいない。自嘲に鼻を鳴らしジェレミアは続けた。
「次にC.C.に尋ねることにしました。年の功というやつです。口をなかなか開いてはくれませんでしたが、毎日通い詰めてついには教えてくれました。その時には既にゼロ・レクイエムの決行まで1ヶ月半と迫っていて、焦りました。『それ』がどこにあるかはC.C.も知りませんでしたので」
「それ、とは?」
 ルルーシュの口から囁きが漏れた。
「不死者の粉(グールパウダー)。その粉を飲んだ者を不死者(グール)に変化させるという、禁断の秘宝です。不死者は神の加護を受けられぬ呪われた存在。血肉を求めて人間を襲う、悪しきもの。……C.C.がなかなかその存在を教えてくれなかったのも、こうして思えば納得します。ただ、当時の私には余裕がなかった」
 貴方を地に返したくはなかったのです。搾り出すかのようなその声は苦悩に満ちていた。主の望みのまま、人として生を終えさせてやりたい。自分の望みのまま、不死者として生を長らえさせたい。どちらも背反し、ジェレミアの中で燻り続けた気持ちだった。
「その粉が手に入ったのはつい先日のことでした。C.C.は良い顔をしませんでしたが、反対することもありませんでした。それが逆に私を躊躇わせました。本当にいいのか、悩み続け……結局使ったのは今朝でした」
 そういえば出立する前にこいつから水を受け取ったな。ルルーシュは思考を巡らす。仏教徒でもないのに死に水という制度を知っていたのかと、自分の死が迫っているにも関わらずに暢気に感心したものだったが。
「ですが……私は貴方になんと残酷なことをしてしまったのでしょうか。私はどうすればいいのでしょうか。先ほどまでは貴方様が望むのなら、あなたを再び私の手で眠らせることを厭いはしませんでした。むしろ半ば望んでいたといっても良い、たかだか貴方の幼なじみであると言うだけでその役目を奪った少年に私は嫉妬していたのです。羨ましかった、貴方の命を終えるその役目が私でないことが憎らしかった……。けれど、こうして私の前で話し動く貴方を見ると、とてもそんなこと出来はしません! やはり私は、貴方に生きていて貰いたいのですルルーシュ様!」
 語気を荒らげ、ジェレミアは床へと突っ伏した。その背中は小さく震えている。
 一方、ルルーシュは真実を告げられてもなお、自分がさほど怒りを覚えていないことに若干の呆れを覚えた。自分の運命を弄ばれたといってもいいにも関わらず、感じたことといえば、ジェレミアはこれほどまでに自分に執着していたのかという驚きだった。これまでジェレミアと体を重ねたことは数度あったが、そのいずれも自分から誘いをかけたものであって、いつも彼は決まりきった応答句を告げて機械的に自分を抱くだけだった。あくまでも臣下としての忠誠にすぎないのだろう、と腹の底から湧き上がる何かを押さえ込めて、幾度も体を乞うたというのに。
 そう思えばルルーシュは腹立たしさを覚える。もっとも、ジェレミアが想定している類のものではなかったが。
 それにしても、とルルーシュは薄目を開けてジェレミアを見やる。彼の目には伏せた姿しか映らず残念に思った。ジェレミアは今どんな表情をしているのだろうか。心の奥底に溜め込んでいた気持ちを全て吐き出して、自分の断罪の言葉を待っているだろう彼はどんな目をしているのだろう。
「――ァ」
 じぇれみあ。喉がひきつり、それは音にならずに僅かに吐息を漏らしただけだったがジェレミアは大きく肩を震わせて、恐る恐るといったように顔を上げた。
 手を僅かに持ち上げ、指先を動かしてジェレミアを招く。その動きはひどく緩慢なものだ。ジェレミアは私欲に走った自分が主に近づいてはならないという節制と主の命に従おうとする忠義がせめぎあったが、すぐに二歩分の距離を詰める。密かに愛する人に求められる喜びが何より勝った。
 真っ赤な目をしたジェレミアをルルーシュは初めて目にした。死んでから初めてわかることもあるのだな、と考えると存外死体も悪くないものだと思えてしまうから不思議だ。
 近づくジェレミアを前にしてルルーシュは思案する。さてルルーシュお前はどうしたい。今の俺はグールパウダーという触媒によって動いている物質だ。人の生き血や肉を求める畜生だ。このまま、目を閉じて再び永遠の眠りにつくべきか、それともこいつのわがままを飲んでやるべきか。だとしても辺りを彷徨って誰これ構わず襲ってしまうような化け物になるのは御免だ。そうだな、もし……。
 ルルーシュはジェレミアの手を掴んでひっくり返すと、その手のひらに指で何かを書き始めた。
「もし 俺を生かしたいと思うのなら その身を俺に捧げろ。それが出来ないのなら 殺せ」
 微かな指の動きの中からIfと始まる、目に見えぬ文字を必死に読みとったジェレミアは、文章を把握すると即座に右腕に携えた隠し剣を構えた。そして躊躇うことなく自分の左手首を引く。動脈を傷つけたのだろう、一瞬の後に勢い良く吹き出す己の血を省みず、傷口をルルーシュの僅かに開いた口元へと当てた。ルルーシュの口内に徐々に貯まっていく血液。ルルーシュは思いふけるように、もしくは何かに思いを馳せるように暫し瞼を閉じる。そしてコクリと喉を鳴らして人間であった自分との別れを己で告げた。
 喉を通る血液は甘くまろやかで、人間であった時分には鉄臭いとしか思わなかった部分こそが血液の最も美味なのだとルルーシュに理解たらしめた。口内にある程度は貯めていたというのにその量では物足りないのか、先ほどは固く動かさなかった両手でジェレミアの左手を鷲掴むと二度三度と続けて血を啜る。じゅるじゅると音を立ててに必死で体に流し込んで行く。しかしその音も次第に静まっていく。喉が潤いある程度飢えも満たされたルルーシュはふとした誘惑に駆られた。
 肉が食べたい。血の滴る、先ほどまで生命活動をして細胞が瑞々しくそして甘く香り立つ筋組織が赤々と照り輝き食欲を催させる生肉を! それを思うままに引きちぎって舌の上で転がし味わい、噛むたびに溢れる組織液を堪能し、柔らかくなったところで飲み込み、喉を通る感覚をも楽しみたい!
 その心の底から浮かぶ欲求のままに獲物に歯を立てる。ずぶりと肉を突き破る感覚をゆっくりと楽しんだ後、まずは食いちぎってやろうと奥歯を噛みしめたところで、獲物の堪え損ねた呻き声が微かにルルーシュの耳に届いた。
 呻き声、何のだ。獲物の立てる声だ。獲物、獲物とはなんだ。愚かにも自分から志願した獲物だ。それは何故だ。それは何故だったか。何故こいつは自分から獲物にならんと望んだのだったろうか。
 そこまでルルーシュの思考が至ると、彼はゆっくりと犬歯をジェレミアの手首から引き抜いた。その瞬間彼の体がびくりと震えるのが、掴んだ腕ごしに伝わる。
 そんなの決まっている、俺の為に、だ。

 ルルーシュは上体を起こし、一つ伸びをした。先ほどまでの倦怠感はすっかり消え失せて、自分が死体であるということを忘れさせそうな清々しい気分に包まれていた。
「悪かったなジェレミア。初めてでなかなか勝手がわからなかった。次からはもっと巧くやれるはずだ」
「……よろしいので?」
 大量の出血のためか、声を震わせながら尋ねるジェレミアの目を見返すルルーシュ。いかな彼と言えど立つのが厳しいのか、床に膝を突いて珍しくも上体をルルーシュの膝に凭れさせている。
「何に対しての言葉だジェレミア卿?」
 ルルーシュは両手をジェレミアの血の気の失せた両頬に添えた。先ほどまで彼を捕食するために使われていた両手を、今は彼を愛おしむ為に。
「これからもその身をもって存分に励めよ、忠義でなくて愛でな」

 *** *** ***

 オレンジ農業で盛んなランペルージ農園の一角では山羊が育てられている。不思議なことに結構な頻度で購入される家畜が出荷されることはまずない。しかし全体数が変わることもない。この不思議について尋ねると、ランペルージ農園主はこう答えるそうだ。
「毎日というにはアレの身も保ちませんので、彼らの具合もいい事ですし時折替わってもらうのですよ」
 ここは船上というわけでもなし、物好きな奴もいるものだと下卑た笑いにも農園主はひっそりと微笑むのだった。
Written by BAN 1111 09

-Powered by HTML DWARF-