小噺2

 食事習慣は、一人の少年が来て一新された。
 これまでの食事というのは生きるか死ぬかの綱渡りをしていたようなものだ。飼い主によるアレンジが加えられなければ生、運悪く手を加えられれば死への一直線コース。
 なぜ魚を焼かれただけでああも苦しい思いをしなければならないのか。あのようなものを食卓に出す彼女はまさに悪魔ではないのか。
 自分を処理直前に拾ってくれた、恩義ある人間といえど食事前には実に苦々しい思いをしていた。

 けれどある時、飼い主の下に一人の少年が居候を始めた。風呂場で初対面を果たした時には仰々しく騒がれ閉口したものだが、慣れてくると彼は素晴らしい食事を提供してくれた。
「食事とはかくも美味しいものだったのか!」
 初めて彼によって調理されたものを食べた時には、感激のあまり彼の両手を握り締めて涙を流した。彼も言葉が通じなくとも、私が喜んでいるのが伝わったのだろう、にこにこと笑いながら「おかわりあるからね」と握った前ひれを上下に揺さぶったのだった。

 そうして私は愚かにも哺乳類である彼を好ましいと思ってしまったのだ。悲しいことに本能の食欲を満たしてくれる彼を好ましいと思うのは動物の性、そこに自意識など介入する隙間はない。
 けれど彼の笑顔や声、しぐさ、その全てが愛おしい。本能による好意を超えた、高度な感情の愛。それを感じることができた。飼い主には悪いが、彼こそが飼い主だったのなら、そう思ったことは何度もある。

 ある日、年の割にはしっかりとした所がある彼が珍しくも何か買い忘れるということがあった。
 風呂から上がったところ、冷蔵庫前で途方にくれている彼を目にした時に、彼の為になにかしてやりたいと心から思った。彼が買い忘れた何かによって、自分の食事に影響があることとか、そういった動物的な利己の考えが一切思い浮かばなかった。
 飛ばしきれなかった水分をタオルでふき取りつつ、食卓に置かれた彼の財布を銜える。そして呆然としている彼を叩いて注意をこちらに向けると、まだ冷蔵庫に詰めている途中の買い物袋と口に銜えた財布を交互に指して、意図が伝わるように何度も繰り返した。

 初めは不思議そうな表情を浮かべていた彼だったが、次第に理解したのだろう。次に心配そうな表情をその顔に浮かべた。
「大丈夫ペンペン? 買い物なんて出来るの?」
 何たることか、彼は私を普通の愛玩動物だとでも思っているのだろうか。普通の愛玩動物が人間に恋するとでも……とこれは自身の心のうちに秘めているから、彼が知る由もないことか。
 心外だとタオルを振り回したら、彼にも意図が伝わったのだろう。ごめんとの謝罪の後にじゃあお願いするねと申し訳なさそうに眉を寄せられた。
 その表情は良くない。何でもお願いを叶えてしまいたくなるではないか。まだ幼いのに処世術を把握するなど先行きの恐ろしい少年だ。

 その後告げられたことによると、どうやら足りないのは白味噌であるらしい。味噌なぞどれでも同じだと思うのだが、色々と混ぜている彼の様子を見るとそうでもないようだ。事実彼の作る味噌汁はとても美味しいので、こと料理に関して彼に間違いはない。
 まるで新婚のように玄関まで見送られ、近くのスーパーまで買い物に出かける。このマンションからはさほど遠くない位置だ。
 夕日が影を伸ばす中、誰もが家路へと向かっている。この辺りではもう、自分を見て珍しそうにする者はいない。引っ越してきた当初は可愛いだなんだと構われたものだが、人間というのは薄情なもので、新鮮さが失せると興味すらなくなるらしい。

 そんなわけでスーパーの店員も、温泉ペンギンが一人で買い物に来ることに慣れていて、私がカゴを持ってレジに行っても何の反応も示さなくなってしまった。これはこれで面白くない。しかし今はおつかいを終えることが最優先なので、特に不満足を示すことなく、彼の財布から、レジに表示された金額より多少大きいのを出す。端数を合わせようと小銭を探るが小銭自体が少ない……おそらく彼は、買い物の際に端数ぴったり払うことが多いのだろう。……と、3円あるので、これを出す。
 そこで、今まで何の反応も示さなかった店員の目が「こいつ鳥類の癖に、受け取る釣り銭の枚数を少なくする計算が出来るのか」という驚きに見張った。セカンドインパクト以降の鳥類を舐めないでいただきたい、何せ株式欄に目を通すのが朝の日課なのだから。
 ありがとうございましたーという、気のない礼に押され店を後にする。品物は前ひれで抱えているため少々歩きにくくなったが、引きずるわけにもいかないのでこれも仕方あるまい。これも彼の喜ぶ顔の為だ。不自由が我慢しよう。

 日は沈みかけ、太陽と反対側の空は鳥類には天敵の群青色が広がりつつある。あれが空一面を覆ってしまうと、情けないことに自分は身動きが取れなくなってしまう。少々急がねばならないようだ。スーパーで意外と時間を取られてしまった。
 しかし腕に抱えた荷物のため、行きよりもスピードはぐんと落ちている。味噌は温泉ペンギンには少々重たい。
 焦りを覚え始めた頃、街頭の下に一人の少年が立っていることに気がついた。まさか。
 私に気がついたその少年は、おかえりと私の名前を呼んでくれた。彼だったのだ。あのやさしい笑顔を浮かべ、エプロンを掛けたままのつっかけ姿で出迎えに来てくれたのだ。その時の私の胸に湧き上がった歓喜はいかほどのものだったろうか。
 背を撫でて労ってくれる彼に擦り寄って、もっととねだる。賢い彼は私の意図を察して、撫で続けてくれた。この少年と暮らせて、私はとても幸せだ。彼と出会うために、私は生まれてきたのかもしれない。
 すっかり夜の帳がおり、彼に抱きかかえられて帰路に着いた私は彼の腕の中でそんなフレーズに思い至った。

 同居人に新たに彼と同じ年頃の少女が加わった今でも、私の信望は彼にある。きっかけは美味しい食事を作ってくれたこと。けれど彼の魅力はそれだけに留まらない。ガラスのように繊細な心がひどく愛おしい。
「ペンペン、ご飯できたよー」
「クェー!」
 今日も彼の食事を味わうことが出来て幸運だ。月を見上げながら、そう思った。






「タブリス、何か歯軋りのような音がするのだが……」
「……気のせいだよキール」
Written by BAN 071209

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