思いの力

 その場に、歓声と罵声と号泣が響き渡る。
 ジェレミアは思考の海に沈みそうになる自分を叱咤し、部下に檄を飛ばす。そして、自分がこの場に残った意味を、この役割のつとめを果たすために主の下へ走った。先ほどまで整然と凱旋パレードが行われていた道路は、囚われた黒の騎士団を解放しようとかけよる人々と圧制に募らせていた不満を晴らそうとする群衆が入り乱れて混乱していた。
 撤退していくKMFの流れの中で、皇帝専用のヴィークルだけが動きを止めている。そこから響き渡る嗚咽がジェレミアの胸を強く締め付けた。出来るなら、二人をそのままにしておいてさしあげたい。
「ルルーシュはどこだ! 奴の首を晒せ!」
 だが、抑圧から解放された人々は、その恨みを皇帝の遺骸にむけつつある。あの美しい身体が例え死後といえど切り刻まれるのは耐え難い。ジェレミアはその身を走らせ、一息ざまに壮麗に装飾されたヴィークルを駆け上り、主と、彼に取りすがり狂ったように目を見開いて泣く彼の妹のもとへとたどり着いた。
「ナナリーさま、その手をお放し下さい」
「いやです、お兄様! お兄様と一緒にいます! 離れたくないお兄様こんなのは嫌です!」
 ナナリーは滂沱し、顔をルルーシュの懐にうずめている。かんばせに赤い彩りが加えられるも、それを涙が押し流していた。ナナリーさま。ジェレミアはやりきれない思いで、言葉を漏らすが、深く息を吸うと、御免! と叫びルルーシュの身体に手を伸ばす。
「何をするの、やめてください! 私からお兄様を取らないで、もう離してあげて! お兄様! いや、いかないで!」
 抱えあげられたルルーシュの、だらりと力なく垂れた腕にナナリーは取りすがる。その腕からはゆっくりと、しかし確実に熱が失われている。それはルルーシュの身体を抱きかかえるジェレミアにも感じ取れ、瞬間的に湧き上がる涙をぐっと力をこめて瞼をとじてやり過ごす。今はその時ではない。時は一刻を争うのだ。使命感に燃え上がったジェレミアは哀れな妹君にも冷静さを発揮する事が出来た。
「お聞きわけください、この場にルルーシュ様のご遺体を放置しておけばどうなるかおわかりでしょう!」
 その言葉にビクリとナナリーは身体を震わせた。先ほどから皇帝の首を取れと喚く声がさかんに上がっている。その者たちがここにやってくるのも時間の問題である。
 ナナリーはすがり付いていた腕から手を解き、床に伏して嘆きの声を上げた。
「ご理解、感謝いたします」
 ジェレミアは一人、主を抱えて姿を消した。

 *** *** ***

 ゼロによる怒涛の弑逆が行われ数ヶ月がたった。神聖ブリタニア王国は帝都ペンドラゴンの消滅から身を逃れていた皇族の中から、先々代皇帝シャルル・ジ・ブリタニアの遺児で先代皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの遺妹である、ナナリー・ヴィ・ブリタニアが第100代皇帝として選出され、異母兄のシュナイゼルや黒の騎士団CEOであるゼロの協力の下、急ピッチで政治基盤が整えられていた。目まぐるしい毎日に追われるナナリーの元に、ある日姿を消していたかつてのナイトオブラウンズである、アーニャ・アールストレイムが姿を見せた。
「お久しぶり……陛下」
「アーニャさん! 私、てっきりあの戦闘で亡くなられたかと! 良かった、良かったです……!」
 目に涙を浮かべて喜ぶナナリーは私室にアーニャを案内する。車椅子を押すアーニャの手つきは慣れたもので、かつてエリア11と呼ばれた日本での総督時代をナナリーに彷彿とさせた。それと同時に、頭を悩ませていた黒の騎士団の……ゼロのことも。一度思い出せば、記憶は次々に蘇ってしまう。幼い頃から自分を支えてくれたお兄様、お母様とともに自分を慈しんでくれたお兄様、日本に来てからはお兄様が自分の世話をしてくれて、お兄様がゼロとして日本人のために戦って、悪逆皇帝として人民を恐怖の渦に陥れて、そして何も残さずに……。
 咽喉がヒクリと引きつる。決して思い出さないようにしていた。忙しい日々に没頭することで、思い出さないように努力していたのに。
 思い出せば正常ではいられなくなる、ナナリーはそうわかっていて、周りの労しげな視線にも敢えて気づかないふりをしていた。そしてそれはまた今回も。

 ナナリーの私室で二人は近況を語り合った。特にアーニャの近況は意外というほかなく、ナナリーは控えめに口をあけて驚いてしまったほどだ。
「まさかアーニャさんが農園だなんて……何というか、その、意外です」
「結構楽しい」
「でも、一体どういったきっかけで、農園を?」
「ジェレミアに誘われた」
 ヒクリとまた咽喉がうごく。ジェレミア、それはお兄様に遣えて、お兄様の……を抱えて去っていった方の名前。
「そうなのですか、では今はその方と?」
「二人で暮らしている」
 二人。ジェレミアとアーニャで二人。その他には誰もいない。お兄様はいない。
「そう、ですか……」
 ナナリーの声が震える。わかっていた、僅かにも希望を持ってしまった自分が愚かだということもわかっていた。何故ならお兄様は私の目の前で……私に何も残さずに逝ってしまったのだから。
 アーニャが突然立ち上がった。対面する二人の間にあるテーブルに手をついて、もう片手をナナリーの頬に伸ばすと、伝う涙をそっと拭った。自分でも気づいていなかったのだろう、目を見開いてナナリーは驚きに身を固めた。
「……今日は、届け物をもってきた」
「届け物……ですか」
「渡すかどうか、私に任せる。ジェレミアから言われて預かった」
「……」
「今の貴方には渡した方がいい」
 アーニャはそう言うと、鞄に手を伸ばした。恐る恐る見守るナナリーの目の前でも、アーニャは焦ることなくゆっくりとした動作で、紫のベルベットで包まれた箱のようなものを取り出す。
 そのまま机の上に置かれた箱を開けるように促されたナナリーは、ごくりと唾液を飲み込むと、緩慢にベルベットを剥がしていく。露になったのは象牙製の白い箱。それは手のひらに乗るくらいの大きさだった。蓋に手をかけ、アーニャに視線にやると、こっくりと首を縦に振った。それに押されるように、ナナリーは蓋を持ち上げる。

 外装と同じ紫のベルベットが敷かれた箱の中に、10cmほどの黒い糸のようなものが一束入っていた。恐る恐る手にとってみると、それは髪であった。
 黒い髪の毛。
 はっと勢いよくアーニャを見たナナリーに、彼女は淡々と告げた。
「遺髪。ジェレミアが貴方にって」
「では……やはりこれはお兄様の……」
「埋葬する前に」
「そう、ですか……。お兄様の髪、綺麗ですよね。お兄様とお母様、髪の毛の色が同じで、私ずっとうらやましいって思ってたんです。それに、手入れしないでも真っ直ぐで、私は雨の日もいつもと同じだったお兄様の髪の毛、羨ましかった。小さい時にはお兄様の髪の毛が欲しいって泣いて困らせた事もあったんです。……でも、私はこんな形でお兄様の髪の毛が欲しかったわけじゃない……」
 紫の布の色が濃くなった。ポタリと零れた涙が頬を伝い、落ちている。アーニャは今度ばかりは涙を拭わなかった。
「……ごめんなさい、アーニャさん。ちょっと一人にさせて頂けないでしょうか」
「わかった、また来る。お茶ごちそうさま」
 震える声でそれだけを言ったナナリーに、いつもと変わらぬ調子で応えを返す。
 アーニャが部屋を辞した後、廊下を歩いていると、背後から哭泣が聞こえてきた。
 しかしそれも歩き続けると、次第に遠ざかり、やがては聞こえなくなった。
Written by BAN 1001 08

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