絵空事
「殿下……」
ジェレミアが労わるように、膝を付いて呆けているルルーシュへそっと声をかけた。
密かに世界の命運を掛けた皇帝との一騎打ちはルルーシュの勝利に終わり、勝負が決するまで動くなと厳命されたジェレミアは、その巨体が崩れ落ちる皇帝を尻目にルルーシュへと走り寄った。皇帝の脇を通り過ぎるその瞬間は目を伏せて、母国を発展させた偉大なかつての主君に哀悼の意をこめた。
伏した身体から血の海が広がっていく父をルルーシュは呆然と見つめる。V.V.から継承したコードを持つ皇帝が流血するということはそのコードがルルーシュに継承されたのだろう。即ちシャルル・ジ・ブリタニアの死を意味する。それはルルーシュの宿命の悲願であった。不老不死の身体を得た時にはどうなるかと肝を冷やしていたが、殿下の知略の素晴らしさよとジェレミアの胸は歓喜に打ち震える。ついに我が主が悲願を! 臣下としてこれほど誇らしきことはない。その結果が人の営みからの乖離だとしても、自分と生きる時を違えたのだとしても。
ジェレミアは胸によぎった一抹の寂しさを殺して、ルルーシュに額づいた。
「殿下、おめでとうございます」
「ジェレミア。俺は、やったのか?」
視線は未だ血を流し続ける父に向けたまま、ぽつりと呟きを漏らす。尋ねられたジェレミアは彼が自分を見ていないと知りながらも大きく首を縦に振ると、顔を上げてルルーシュの左手を恭しく両手で包み込んだ。
「はい、貴方様は成し遂げたのです。悲願を、皇帝陛下をこの手で」
ころした。ルルーシュは声に出すことで確認しようというのかまたも呟く。ジェレミアは焦れることなく、ただ力強く手を握り頷いた。
「やった……? 俺はやった……んだな。母さんの――仇を俺は、俺は!」
次第に事実を認識していったルルーシュは咆哮を玉座の間に響き渡らせた。それは歓喜か狂喜か、はたまた人間であることを捨てた悲嘆か。その叫びを唯一聞き届けるジェレミアはまるで体温を失ってしまったかのように冷え切っていた主の手をただ温め続けていた。
*** *** ***
神聖ブリタニア帝国第98代皇帝・シャルル・ジ・ブリタニアが敵対していた超合衆国の武装組織・黒の騎士団によって殺害された。このニュースはブリタニア本国のみならず植民地までを揺るがす大事件となり、本国では後継者争いの内紛が、ナンバーズエリアでは反抗の狼煙が次々とあがった。それはエリア11−日本も例外ではなかった。これを機会に一気にブリタニアを国土から追い出そうと黒の騎士団の攻撃も熾烈を極めていた。
ただ、そこにかつてゼロと呼ばれた男の姿はなかった。ブリタニア本国・帝都ペンドラゴンで皇帝を殺害した後行方がわからなくなっていたのだ。近衛兵に殺害され死体は秘密裏に処理された、というのがブリタニア側のもっぱらの意見だが、ナンバーズや黒の騎士団内では「きっとブラックリベリオンの後の空白の一年の時のように、どこかに潜み工作活動でもしているのだろう」との意見が多数占めていた。それほどまでにゼロの存在、ひいてはゼロによって起こされる奇跡というものに対する期待は大きくなっていたのである。
だがゼロ――ルルーシュに近しい者はこう考えていた。彼は父親を殺した呵責に耐えられず失踪したのだと。騎士団の中枢を占める幹部はゼロの正体を知っていたため、黒の騎士団内ではゼロ無しで重要事項の決定が行われるようになっていた。そして更にルルーシュに近しい極一部のものが真実を理解していた。すなわち父シャルルからコードを引き継ぎ、人とは違う理に身をうずめた事を。その為に姿を消し、出奔したのだと。
その真実を知るうちの一人、ジェレミアは主が失踪して以来少しでも手がかりを探そうと彼に関わりのある場所全てをあたっていた。アッシュフォード学園、アッシュフォード家、黒の騎士団、蓬莱島、そしてブリタニア本国のコーネリアに後見されているナナリー。しかしいずれの場所にも手がかりは何もなかった、裏切り者のそしりを受けつつも訪問したペンドラゴンにも。ナナリーは何も知らなかった。ゼロの正体も、ルルーシュが失踪したということも。
ジェレミアは詳しい状況を知っているコーネリアにも投獄されることを覚悟で会いに行ったこともあった。しかし彼女でも皇帝がルルーシュによって殺されたという以上の情報は知らず、シュナイゼル兄上も同じだろうと語った。
「一度はお前に救ってもらったこの命に報いるために、私が知っていることは全て教えた。おそらくここには……あいつの行方を知るものはいないだろう。それとも承知の上で枢木を呼ぶか?」
「お願いします。今の私にはそれしか道は……少しでもあのお方の情報を集めなければ」
コーネリアは憔悴しきった姿でなおも主を探し続けるジェレミアに痛ましさを覚えつつ、己の騎士に秘密裏に枢木卿を呼び出すように命じた。彼女自身としては最愛の妹の仇であるルルーシュがどことも知れぬ地で屍を晒そうが知ったことではないが、騎士の主に対する忠義が人並みならぬことは自分の騎士を見て理解していた。きっと私が総督を退いてギルにも告げず教団について探し回っていた時も、彼は同じように私の行方を方々尋ねたのだろう。コーネリアは自身の恩だけでなく、かつての騎士と同じような立場となった彼を通じてギルフォードへの罪滅ぼしをしようと決意したがゆえに、祖国を裏切りテロリストに下ったジェレミアを警備兵に通報するような真似はしなかった。
「しかし、ジェレミアよ。私は一体玉座の間で何が起こったのかは伝え聞いたことしか知らぬ。良ければ詳しく教えてはくれぬか」
ジェレミアはその問いかけにYes,your highnessと返し、これまで誰にも語ったことのない真実を口にし始めた。
*** *** ***
喉が枯れる寸前までただ叫び続けたルルーシュが落ち着いたのを見計らって、ジェレミアは握り続けていた手にそっと口付けを落とす。ピクリとルルーシュが反応したのを見て取り、口を開く。
「殿下、いえルルーシュ様。あなた様はこれで人間としての生のしがらみから解放されました。誠に喜ばしいことです」
「……喜ばしいことなのだろうか、不死の体が、不老の肉体が」
「私は優れた主君が永遠の命を得ることになんら疑問を抱きません。あなた様のような素晴らしい方がそれを得るのも当然のことと存じます」
「主君として、か。ならばジェレミア、お前の恋人が永久に生きる定めを持ち、避けられない死という別離を迎えるとしたらどうだ。身分も年も性別も、山ほど障害のある相手と添い遂げたいという願いすら叶わず、同じ時にて死ぬことだけを願っていたというのにそれすらも叶わないとしても、お前は喜ばしいことだと言うつもりかジェレミア!」
初めは淡々と話していたルルーシュだったが次第に熱がこもり、最後には感情的に叫んだ。その悲痛な叫びを受けたジェレミアもまた沈痛な面持ちで、それは……と押し黙る。縋るようなルルーシュの視線をまっすぐ受け止めることが出来ず、顔を伏せることで彼の視線から逃げた。
この二人はもはや単なる主従で括れるような関係ではなかったが、さりとてぴたりと言い添える言葉もなかった。肉体の繋がりはあるものの幾重のしがらみが彼らを恋人同士とすることを阻んでいた。恋人のようだが、決してそうはなれない二人。しかし想いとは秘めていても、止まらないのが常だった。
ジェレミアもその例に違わない。ルルーシュは主君であり、敬愛する方の息子であり、同性であり、また年も10以上も離れている。そして自分の身体は冷たい機械。主の情欲を発散させることを大義名聞に身体を食い荒らすことはできても、けっして想いを告げることなど出来はしなかった。たとえルルーシュが己のその想いを理解していると薄々感づいていても。主もまた同じ想いを抱いていると知っていても。
故にジェレミアは答えに詰まった。主は自分の本音を引き出そうとしている、決して告げてはならないその汚らわしい恋情を。
「私は……」
告げてはならない、こんな身の程知らずの情欲など、恋情など!
「私の生ある限り……あなた様に付き従いましょう、ルルーシュ様」
そう答え、ジェレミアは目蓋を伏せる。未練たらしい己の情を断ち切るように。己の主にもそう悟らせるように。機械の身体といえど、中途半端な改造では不死となったルルーシュの伴侶となるほどの寿命を得られない。不毛な感情を持つのはお互いにやめましょう、そう暗に伝えた答えにルルーシュは何も言わず、ただ鼻で嗤った。
彼が失踪したのはその晩のことだった。
*** *** ***
「コーネリア皇女殿下は私を愚かと、身分をわきまえよとおっしゃりたいのも当然と思います。ですがルルーシュ様が失踪なされたのも私の発言が原因なのも明らか。それを思えば私は……何としても殿下に謝りたい、心から悔いたいのです……」
ジェレミアはただ悔い続け、コーネリアは口を挟むことなくただ彼の話に聞き入る。ジェレミアの口ぶりからは深い、とても深い悔恨が伝わってきた。それと同時にルルーシュへの愛情も。それは主従の愛でもあるが、もっと俗的な男が女に向けるような執着にも思えた。彼が先程言ったとおり、主への忠誠心というラインを超えてしまったのだろう、ジェレミアのルルーシュへ向けた想いは。しかしコーネリアはそれを身の程知らずと吐き捨てることは出来なかった。
「事情はよくわかった。お前がこれほどまでにあいつを捜し求める理由も。しかし、やはり私では力になれぬようだ」
「いえ、私の胸のうちをお聞きくださっただけでも有難く存じます。これまで誰にも話せなかった故、つかえが下りた様な気すら致します、殿下」
そう言って笑って見せたジェレミアの顔はうっすらと陰っており、彼の苦労を偲ばせた。
「それにしても……あいつが本気で隠れようと思ったら私たちには手のようも無いのかも知れないな。それこそ、あいつが姿を現さずにはいられないような状況にするしか……」
コーネリアはそこで言葉を詰まらせた。そんな状況など有りはしないのだろう。これ以上ジェレミアに現実を突きつけるのを良しとしなかったのかもしれない。ジェレミアは言葉もなく黙り込んだ。
その後ギルフォードが連れてきた枢木スザクと話したジェレミアだったがやはり彼からは何の手がかりは得られず、空しい想いを抱きながらブリタニア本国を後にした。
けれどコーネリアの最後の言葉は彼の頭をずっと占めていた。
(殿下が出てこざるを得ない状況といえば、やはりナナリー様の……。しかしそれは一体何年先になることか。殿下は不老不死のお体、特に問題はないだろうが私は……)
ジェレミアはそれから熟考をした。ルルーシュのこと、ナナリーのこと、自分の生存を未だ知らぬであろう妹を始めとした家族のこと、そして己のこと。ふかくふかく考え、その場に立ち尽くす不審さに当局に通報されそうになって宿をとっても、ベッドの上で彼は考えていた。その時限りはルルーシュの行方を追いかけることも忘れた。というより、最早彼から出てこない限り自分に見つからないということを理解し始めていたので、諦めがついたといってもいい。そして次に頭を悩ませたのは己の肉体のことだった。しかしそれもまた秤に掛け、ジェレミアは再確認する。やはり私にとって大事なのはルルーシュ様のみ、ルルーシュ様が私と生涯を共に、死せるときは同じにしたいと思うのなら、己の全てを捨てても構わないと。
そして次の日の朝からジェレミアもまた、姿を消した。コーネリア達が方々手を尽くしても、ルルーシュ共々その行方は露としてわからず、彼女が存命の間についぞ見つかることは叶わなかった。
*** *** ***
大聖堂に荘厳な鐘が響き渡る。死者の魂を弔うように、残された者の悲しみを悼むように。本日天国へと旅立った、かつてナナリー・ヴィ・ブリタニアと呼ばれた女性の棺は、生前の功績が称えられるかのような大勢の参列者に見送られて、真っ直ぐと引かれた赤い絨毯の上をゆっくりと運ばれていく。晩年は子供や孫たちに囲まれ、穏やかな日常を過ごしたというが、死の床で口にしたのは彼女が少女時代に失踪したという実の兄のことだった。普段は表に出さないようにしていたが、やはり長い間気に掛かっていたのだろう。昏睡状態になったときに空ろに兄の名を呟き、そして静かに息を引き取ったそうだ。
ブリタニアの福祉面に偉大な貢献をしたということで、降嫁したにも関わらず国葬が挙げられ国民に広く知らされた。国民もまた彼女の死を悼み、いたるところに半旗を掲げられる。彼女に生前関わりの深かった人物が棺を持ち上げ、霊柩車へと運び入れる。悲しみに包まれた大聖堂を鐘の音が行き渡る。その悲しみを祓うかのようにクラクションが高らかに鳴り、彼女を乗せた漆黒の車は墓地へと向かった。
その涙に包まれる教会の参列客の最後尾に長身の男がいた。何者かを探すかのように、悲しみに顔を伏せ教会から去っていく彼らを鋭い視線で観察している。顔の左半分を覆うような奇妙な仮面を身につけていて、道化じみた格好の不謹慎さに顔をしかめる老人もいたが、彼に睨むように視線を向けられると慌てて顔を背け足早に去っていった。
そんなやりとりを幾度か繰り返して参列者たちが皆出て行った頃、その仮面の男はようやく立ち上がった。千人近くを収容できる貴族や皇族の喜捨によって建造された優雅な教会の中ほどに、いまだ椅子に腰掛け祈り続けている少年がいた。漆黒の髪が喪服の黒と相まって、まるで天から使わされた死を運ぶ者の象徴にすらみえる。少年は美しく、ただ敬虔に祈り続ける。彼は知っていた、その少年の祈りがどれほど真摯に彼女の死を悼んだものかを。死後の彼女の安寧をその少年ほど祈っているものが他にはいないだろうことを。
絨毯を踏みしめる音が自分に近づいていっても少年は顔を上げなかった。気づいていないのか、それともただ深く祈り続けているのか。それは彼が少年の座る長椅子まできた時に歩みを止めても、続いていた。
「何を祈っていらっしゃるのですか?」
彼の声は少し震えていた。今になって彼女の死に悲しみが湧き立ったのだろうか。いや、違う。彼の胸のうちにあるのは狂おしいばかりの喜びだけだった。彼の頭からは先ほどまで悼んでいた女性の存在は消えていた。顔を伏せたまま、彼に尋ねられた少年は若さの滲む声をあげる。
「……色々だ。ただ、やはり謝罪が多いな。傍にいてやれなくてごめんなって」
「然様で、ございますか。ですが、ナナリー様はご自身のご家族を手に入れ、妻となり、母となり、祖母となりました。最早ナナリー様は貴方が庇護せずには何も出来なかった愛らしい少女ではありません。寂しい思いをしたのも事実でしょうが、それほど気に病まずともナナリー様はきっと」
「ああ、だとそうだといいな。ナナリーのためにもその方が……」
「……それにしても殿下は驚かれませんな、私が当時の姿のまま生きていたことに」
「殿下はやめろ。唯一の身内が天に召された俺だ、もはや俺を皇族と縛るものは何もない。……そうだな、あるいは。とは思っていたんだ。お前はなかなか死にそうにないしな」
「ご冗談を。貴方に置いて行かれたときには気が狂うかと……どれほど貴方を捜し求めたことでしょうか……」
「……」
「ルルーシュ様、お願いです。顔を上げてください、そしてどうか私を見てください」
その言葉にようやく少年は顔を上げた。瞼が開かれて紫水晶の輝かしい瞳が光をともす。彼は、最後に見た時となんら変わっていないその目を見てほぅとため息を漏らす。およそ半世紀ぶりに見る主に安堵したのか、静かに涙が両頬を伝う。だがその色は透き通る従来のものではなく、紫かかった赤。自然のものではなかった。
少年は怪訝そうに彼を見つめる。
「私は、残った肉体部を捨てました。今の私は完全なる機械。脳すらデータバンクにすぎません」
ハッとしたように目を見開いた少年は咄嗟に手を伸ばして、彼の手の甲に触れた。その手から熱は伝わらず、皮膚の下に血が通っていないだろう事を少年に悟らせた。顔を曇らせてしまった少年に微笑みかけると、彼は片膝をついて己の手に触れる少年の手に残る手の平をそっと重ねる。
「しかしこの忌むべき体によって、貴方様とまた道を歩めることが出来ます。どうかお願いいたします。私をお側に、世界が終わるその時まで、貴方が生に飽きる日が来るまで」
「……それは、臣下としてか」
少年は目を伏せて眉根を寄せた。それは少年が姿を消す原因となったやりとりを彼に思い出させたが、もはやあの時感じた壁の数々に対して時間が彼の腹をくくらせていた。あの時のように、少年自身を言い訳に使いたくなかった。
彼はいつかと同じように手に力をこめる。もうその手に熱はないけれど、情念はあの時と少しも違えてはいなかった。
「私は一人の男として、ルルーシュ様と共にありたい。私の機能が止まるその日まで、臣下としてではなく、許されるなら――貴方を愛する男として、共に」
「許すも何も。俺からもお前に頼もう、あの時潰えた願いを今度こそお前と。死する時はジェレミア、お前と共に。それまで俺はお前の身体に熱を与えられ得る唯一の存在で有り続けたい」
「ルルーシュ様……! 私なんぞで宜しいのですか、あの時臆病にも貴方を見捨ててしまった私だというのに」
「だけど今度はちゃんと言ってくれたじゃないか。……なぁジェレミア、誓ってくれないか。皇帝の息子でも、捨てられた皇子でもない、ただのルルーシュに、一人の男としてのお前から」
「――お慕い申して、いや、愛している。ルルーシュ、ただ君だけを私は愛している!」
「っジェレミア!」
そして世界地図からブリタニアという地名が消え、歴史書にて触れられるだけの存在になるほどの時が経っても、二人は常に互いに在り続けたという。
Written by BAN 0901 08