去来


 集めたシーツをぎゅぎゅっと力いっぱい引っ張り、硬く結ぶ。
 今日はいつもチェスの邪魔をしてくるナナリーがユフィの所でおままごとをしてくれている。そんな真剣に勝負するのに絶好の機会だっていうのに僕付きの女官は、都の方にある祭典に借り出されて「ルルーシュ殿下、私は本日殿下のお側に居る事が出来ませんので、お一人で御室にて勉学に励みあそばして下さいませ。お嫌でしたらナナリー殿下とご一緒にユーフェミア殿下の下でおままごとをなさっていただいても結構ですよ。決してシュナイゼル殿下に会いにいってはいけません」なんて! 僕ができれば遠慮したい事を比較対象にあげて半強制的に僕を部屋に軟禁させようとするあたりが、僕付きの女官らしくいやらしい考えだ。とっくに部屋にある本なんて読破してるというのに、部屋になんか居られるもんか!
 というわけで今僕は誰にも見つからずにシュナイゼル兄上のもとまでこっそり向かう準備をしている最中だ。兄上は優しいし、建前より本音を大事にする人だから、僕が一人で来たといっても怒りはしないはずだ。(後で母上に言いつけられるかもしれないけど……)
 ユフィはともかく、クロヴィス兄上やあのコーネリア姉上にも勝てた僕だ。次なる敵は姉上が一目置かれるシュナイゼル兄上! 彼なら僕の好敵手にふさわしい。ただ彼の騎士が僕はちょっとだけ、ほんのちょっとだけ苦手なので、普段はあまり近寄りたくないのだが、背に腹は変えられない。それに他の皇族なんて相手にするだけ無駄だ。
 部屋の外には見張りの兵が立っているために、繋いだシーツをベッドに結んで窓から地面に垂らす。先ほど口先三寸でナナリーと母上のシーツを持ってきてもらった。(さすがに頼まれた兵士は不審そうだったけど、面と向かって皇族に尋ねられるわけもない)これも勝利のためのギセイだと思って二人には我慢してもらいたいところだ。ユフィから貰ったチェスセットを袋に詰めて背負い、これで準備は万端だ。
――でも。窓から地面までを見下ろすと、結構距離があるように思える。かつ愚かにも窓からベッドへの距離の計算を忘れていたために、その分シーツの先端が地面に着かず、ブラブラと揺れている。これは最終的には飛び降りる必要がありそうだ、クソ僕としたことが!
 しかし僕のチェスへの、勝利への執念はこんなことで揺らいだりはしない。僕は閃光のマリアンヌの息子、こんなことで怖気づいたりは――しない!
「行くぞー!」
 シーツをしっかりと手に取り、窓からゆっくりと身を乗り出す。周囲に見張りは無し。足を壁につけて、少しずつ少しずつ降りていく。途中で、自分を支えるためにシーツを体に一周巻き付けてから降りればよかったと思いついて、次の機会にはこの反省を生かそうと決意する。
 僕の部屋とその階下の部屋の丁度中間まで来た時、白く輝くシーツを握り締める僕の手になんとも嫌な感触が伝わってきた。
「まさか……こんなに強度がなかったのか! なんという誤算だ!」
 何処かでブチブチと繊維の切れる音がする。流石は最高級なシルクが使われているだけあって、肌触りが最優先のシーツに強度などなかなか望めるものではない。どうしよう、戻ったほうがいいのか。でも、自分の部屋に戻るのも地面に降りるのも同じ様な距離だ。迷いは一瞬。少しでも下に進んだ方が、シーツが切れたときの衝撃も少ないはず。すでに足は階下の部屋の窓枠に掛かっている。ここからなら落ちても大した衝撃にはならないはずだ。手を滑らさないように慎重に、だけど急いで地面に向かう。
 もう少しでシーツの終わりというところで、茂みを掻き分けるような声が背後からした。
「貴様何者ッ――ル、ルルーシュ様! 一体何を!」
 うわぁ見つかってしまった。しかもこんな危機的状況で。初めて聞く声だから僕の顔見知りというわけでもないのだろう、もしもこの男が僕を反目している陣営だったら面倒なことになるな……。
「あ、あ、あ危のうございます殿下! 今私がお助けいたします!」
 でも彼の声は僕を助けたい必死さにあふれていて、弱みを握ったとかそういう下種な感じは見当たらない。見下ろしてみた顔はただ焦っているだけのようにも見える。信じてもいいのだろうか……? もしそれを逆手に取られるようなら、いずれ彼の弱みを握り支配してしまえばいいことだ。それに大人の身長から少し高いくらいのここからなら例え落とされても、地面は芝生だし大した怪我はしない。そしてシーツはどんどん亀裂が大きくなっていってる。ここはとりあえず信じてみるか。
「わかった! 今から飛び降りる、落下予想地点に着け!」
「Yes,Your highness!」
 再び下を見ると僕の足とその男が直線状に並ぶ。うまく回り込んだようだ。もしこのまま落ちてしまってもこの男がクッションになって、怪我することはなさそうだ。しかし、今のところは敵意も見えない相手に怪我をさせるのは母様の子として誇りが損なわれる。注意を払って、僕と彼が怪我しないようにしなければならない。
「殿下、準備整いましてございます!」
「よし、カウント3! 2!」
 1の所で手を離す。一瞬の浮遊感の後、軽い衝撃と共に全身を支えられる感覚。飛び降りたときに閉じてしまった目を開くと、僕の視界には緑とオレンジが飛び込んできた。
「ああ、良かった殿下お怪我はございませんか、それにしても一体何故あんな所に」
「お前……オレンジ色だな……」
「――はぁ」
 その気の抜けたような相槌に、まじまじと彼の瞳を見つめるあまり内心思ったことをそのまま口に出していたことに気づいた。瞬時に顔が熱くなる。ぼ、僕としたことが!
 そう思えば子供のように抱えられていることも気恥ずかしくなって、下ろせと身をよじって訴える。
 彼も動揺していたのだろう、僕を抱いたままだったということにようやく気づくと膝を付いて僕の降りられる高さに調整した。
「御身に触れたご無礼、如何様にも」
 僕が地面に下りて身を整えていると彼は頭を垂らし、下命を待った。そもそもこの事態は僕に問題があったことだったというのに生真面目なやつだ。彼が膝を付いていることで見下ろすことが出来たので、下を向いているのをいいことに改めて観察してみる。
 先ほど飛び降りたときに目に映った緑……やや明るめで光に映える髪だ。僕のとは違ってナナリーみたいなクセ毛。顔を伏せているせいで先ほどのオレンジの瞳が見れないのを残念に思う。顔を上げる様に命じたのは、ほとんど無意識だった。
 彼の瞳はまるで夕日のようだ。一日の終わりを告げ、闇夜を呼び込む宵と夕焼け空の交わる色。とても綺麗だ。母上やナナリーとも、ユフィとも違う初めて見る色合いの瞳。もっと、ずっと見ていたいとそう思った。
「あの、殿下」
 あまりに真剣に眺めすぎたせいか、困惑したようにその男が声をかける。ああ、確か処罰をとか言ってたんだったな。さてどうしようか。といってもこの男を罰するつもりはさらさらない。問題は兄上としようとしていたチェスだが……あの兄上の騎士に会うのも嫌だし(男か女かわからないし、何だか声をかけられるとドギマギしてしまう)それに最近兄上が軍部に顔を出してることが多いそうだから、いるかいないかわからない相手に会いに行くより、この綺麗な瞳を鑑賞するほうが有益に思える。よし、決めた。
「貴公のお陰で僕、私に怪我はない。感謝こそすれ罰するいわれは何もない。立ちたまえ」
 従って立ち上がった彼は僕が遥か上を見上げなければならないほど大きかった。あのオレンジが遠くなって少し残念に思う。
「私はシュナイゼル兄上をお伺いする予定だったのだが、気が変わった。貴公はこれから予定はあるのか? 見たところ、警備兵というわけでも無さそうだが」
 よく見る彼らは銃を肩に掲げ武装しているが、この男は制服を着ているくせに帯銃はしていない。おそらく仕事上がりもしくは前かと思いそう尋ねた。
「恐れながらお答えいたします! 自分は近日アリエス宮の警備に配置される予定であります。本日は正式に配備される前に地理を把握しておこうと思いまして……」
「ふぅん、っと左様か。ならばこの後特に予定もないだろう、付いて来い」
 常套句を返した後、僕の後ろに付き従う。うーん、どうしようか。やはりここは僕の部屋でやるべきかそれともサロンか。まだ正式に配備されていないといっていたからあまり人目に触れないほうが良いか。よし、僕の部屋に向かうとしよう。
 落下したアリエス宮の裏手から入り口へと続く道を進む。なんだか入り口のあたりが
 騒がしいけど何かあったのだろうか。それにしても……。
 ちらっと後ろを振り向くと彼がいる。近いうちにアリエス宮に来るってことはいつもあのオレンジを見られるってことだ。綺麗な綺麗な、まるで太陽の瞳。早くその日が来ないかな。まずはチェスをしながらゆっくり堪能しよう。

 その後ルルーシュが彼とチェスをすることは出来なかった。脱走がばれた為に外殿に出かけていたマリアンヌが呼ばれ、白亜の宮殿前で待ち構えていた彼女にしこたま叱られる羽目になってしまったからだ。破れたシーツを自分で縫いなさい! と母から命じられた少年はチェスどころではなくなってしまい、その後オレンジの瞳の持ち主に関してはすっかり記憶の奥底に仕舞われていた。その数日後に惨劇、環境の変化が幼い身に続いたのだ。それも仕方のないことだろう。

 そして時は現代――
「お呼びですか殿下」
「ああ、入れジェレミア」
 ゼロを遣えるべき相手と見定め臣下に下ったジェレミア。純潔派としてブリタニア帝国に属していたころに散々煮え湯を飲まされた挙句、望まぬ機械の体にされる要因を作った相手にも膝をつける彼の忠義は本物だった。ゼロ――ルルーシュもそんな彼を信頼し、親衛隊として身近に置いていた。普段離れた場所にいるジェレミアだったが、ゼロから直々に呼ばれ、こうして一部のものにしか立ち入りを許されないゼロの私室に赴いたわけである。
 機械越しのくぐもった声に従い部屋に入ったジェレミアは後ろ手でロックをかける。
 見知った者同士、他人が入って来れないよう整えてからゼロは仮面をはずしルルーシュへと戻った。
「呼び出してすまなかったな」
「ルルーシュ様の側に馳せ参じるのですから、喜び以外感じません」
 ルルーシュは困ったように笑うと椅子に腰掛けるよう勧めた。常套句の後腰掛けたジェレミアの向かいにルルーシュも倣うとテーブルの上に散らばっていたチェス駒を盤の上に並べていく。ジェレミアはルルーシュのその慣れて洗礼された手さばきをうっとりと眺め、口には出さないもののその美しさを称える単語をつらつらと並べる。カツと音を立てて最後にポーンを並べ終えるとルルーシュは口を開いた。
「ジェレミア、チェスはできるな?」
「はい、勿論です。殿下にはとても敵いませんが……」
「当然だ、俺に勝てるやつなぞめったにいるものか」
 細かく駒の位置を調整していたルルーシュは、顔を上げてジェレミアの顔を食い入るように見つめる。ジェレミアもまた身じろぎすることなくその紫の瞳を見返す。
「ただ、お前とチェスがしたいだけだ。腕前などどうでもいいんだ」
「こ、光栄です殿下!」
 そらお前が白だと先手を促されるとジェレミアは感激に潤んだ瞳を盤上に向けてしまう。ルルーシュは彼の視線が自分から外れてしまったのを残念に思いながらも、この時間は彼の瞳を堪能できるのだからと思い直す。せいぜい長く楽しめるよう手を抜いてやるとするか。
 定石のとおりポーンがe4へと進む。ルルーシュもまたポーンを手に取る。
「お前の瞳……惜しかったな。存外俺はそのオレンジを愛していたんだが」
「……ッ殿下ッ! 私は、私は……くぅ」
 無言で差し出されたハンカチにさらに感激したジェレミアを堪能するルルーシュは、彼から目を離さずe5へと置いた。
「俺ははるか昔、お前とこうしたかったんだよ……」
 長い間忘れてしまっていたがな。
Written by BAN 0729 08

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