東の空が薄らと明け始めていた時分。大坂城内の人が行き交わぬ場所にて、石田三成はひたすらに真剣を振るっていた。彼が得意とするのは抜刀術ではあるため、本来は連続して刀を振ることはない。
しかし、乱戦で鞘を失ってしまえば、ただひたすらに刀を振るい続けねばならない。普段からそういった事態に慣れてなければ、いざという時に力加減がわからぬまま体力を消耗し、使い物にならないだろう。三成は、体力が少ないという自分の欠点を熟知していた。
その上、数年前に大阪城にやってきた徳川家康の肉体を思えば、振り下ろす刀にも力が入る。それまでは、例え筋骨隆々とした者を見ても、焦燥感を覚えなかった。どれだけ体を鍛えようとも、所詮は自分よりも弱いという慢心があった。
しかし家康を見、手合わせし、初めて焦りを覚えた。決して負けることはないが、さりとて勝つわけでもない。このままでは良くないのかもしれない、そう思わされた初めての相手だった。
以来三成は、早朝の鍛錬を欠かさない。家康が来る以前も欠かしたことはなかったが、前にも増して力を注いでいた。
ふっと刀を振り下ろした瞬間、こめかみを伝い落ちた汗が目尻に流れ込んだ。目に僅かな痛みを覚えて刀を下ろす。痛みを感じられるほどに集中力が落ちていたようだ。自分の不甲斐なさに舌を打つ。
このところの気象は、早朝であっても体を動かせばたちどころに汗が吹き出し、煩わしいことこの上ない。夏など滅んでしまえばいいものを、とここ数年この時期は決まって体調を崩す軍師を気遣い、天を呪った。
流れが止まってしまったため、今朝の分はこれまでだと体を弛緩させ、投げ捨てた鞘に刀を納める。その瞬間、蝉の大合唱が耳をつんざく。更に今まで気にもならなかった、全身に服が絡み付く鬱陶しさを自覚する。こめかみや首筋に張り付く髪、背中に張り付く衣、袴の中で篭もる熱、足首に当たる足袋の煩わしさ。すべてが不愉快だった。
部屋で着替える前に、一度井戸で水を浴びねばなるまい。側の 植木に掛けていた白い手ぬぐいと、今まで振るっていた刀を手に、三成は彼専用の鍛錬場を去った。

早朝にも関わらず、気遣いを一切見せずに板張りの廊下を踏み鳴らし足早に進む。その最中、顎から首へと掛けてぞわりとした感覚を覚えた。再度汗が伝ったのだ。不快感に顔を歪め、左手で持った手ぬぐいで乱雑に首を拭った。しかし汗は次から次へと湧いてくる。始めはその都度拭っていた三成だったが、そのうち面倒になり、ついには手ぬぐいを首に引っ掛けてしまった。
歩く三成の速度に合わせて手ぬぐいも揺れる。そして何気なく 左肩を見た拍子に視界に入ったそれに気が付くと、眉根に皺が寄った。

白かったはずの手ぬぐいが、一部赤みがかっていた。それは極薄いものであったが、血の色にも見えた。
「虫に刺されたか」
他に自分から血が出る理由など考えもしない三成は、あっさりとそう結論付けた。先ほど手ぬぐいで拭ったあたりを、指先で探ってみる。しかし、虫さされ特有の膨らみにはどこにもない。刀を持ち替え、反対側の腕でまさぐってみるが、やはり指先に違和感はなかった。
耳の後ろを伝う汗が首筋を通して掌にも流れつつある。鍛錬で熱くなった体からは、留まることなく汗が流れ続ける。
まずは手ぬぐいをよく検分しようと首から外す。立ち止まって刀をその場に置いた。手ぬぐいを両手に持ち替え、それを広げようとした時、三成は血液がどこから流れているのか気が付いた。掌がじんわりと赤く染まっていたのだ。
確かに、昔は木刀で訓練していた幼い時分には、よく肉刺をつぶしては出血していた。近頃では殆ど無くなっていたが、普段使わぬ箇所を使い込んで肉刺が出来ていたのだろうと考え、手ぬぐいで掌を拭った。
しかし、そこには潰れた肉刺など、どこにもなかった。それどころか、傷一つない。
「どういうことだ?」
暫し頭を捻って考えてみたが、全く理由など思い浮かばない。そのうちに、考えるのを止め、向かう場所を井戸から変更することにした。自分が考えても埒が明かぬというのなら、考えるのが得意な者に任せるべきだ。この短時間に思いついたのは、ただそれだけだった。
Written by BAN 1030 11

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