sample
タクシーはそれほど長い時間走らずに、スペインの家にたどり着いた。ポーチに車を付けて貰い、急いでもらった礼にチップを多めに渡す。すると運転手は 破顔し、グラーシアスと何度も繰り返して俺の肩を叩く。確かに相場よか多いが、思ったより早かったし、このおっさんもスペインのところの国民だ。あいつに素直に出来ない分、国民には良くしてやりたかった。だがおっさん、肩痛ぇ。
「ロマーノ! よう来たなぁ!」
突然、外から声が聞こえた。車のドアは閉まった ままなのに、良く通るもんだ。玄関に背を向けていたので気づかなかったが、振り返れば、タクシーを乗り付けた際には閉じていた玄関が開いていて光が漏れている。逆光になっているため表情はよく見えないが、腕を大きく振っているその人物はまぎれもなくスペインだ。
「ロマー!」
大声で人の名前を呼ぶな、この恥ずかしい奴め! 近くに家がないから良いものの、もしそうだったら近所迷惑になるレベルだぞこれは。思わず顔を背ける俺に、運転手が微笑ましくてたまらないというような眼差しを向けたのがわかった。クソったれ。
一言文句を言ってやろうとタクシーから降りて 足早にスペインに近づくと、思いもしない姿に度肝を抜かれた。身につけたトマト柄のエプロン、これは まだいい。トマトが挑発的な顔をして描かれている のもいいだろう。しかし鳥の巣、これはない。
「お前……何だよその頭は」
普段からスペインの髪の毛というものは四方八方へ向かっている。ある時、もうちょっとどうにかならないのかと指摘すると、これでもセットしてるんやで、と返されたことがあった。当時は鼻で笑い飛ばした ものだったが、初めて彼の横で目覚めたときに、その言葉が嘘ではないことを知った、という経緯がある。そして今、スペインは寝起きのスタイルのままだった。まさに鳥の巣だ。
「これかー。あんな、ロマに美味しいもん食わせたろ思たら、仕込みで時間惜しくてたまらんくてなー。 だから期待してええで、ごっつウマウマやで! こないだ行ったバルの肉が、そら頬がとろけてしまいそうでな、こらロマに食わせたろってレシピ教えてもろたんよ! またその主人がなかなか教えてくれんケチな奴やさかい、俺のロマがどれだけグルメで味にうるさいかわりに、ホンマに美味しいもんを食べたときに見せる可愛らしさの」
「もういいから黙れ」
はじめは、身支度の時間を惜しむほど料理に力を入れてくれたのかと不覚にも感動を覚えたのだが、次第にいたたまれなくなった。こいつに話し続けさせたら、逃げ出したくなるほどの賞賛が延々続くと容易に想像できたので、スペインのふくらはぎを軽く蹴飛ばして強制的に終了させる。
大して痛くもないくせに、大げさに声を上げるのを無視して、さっさと家に入って暖まろうと扉を開いた。と思ったら、すかさずスペインが体を押し込んでくる。圧迫感に文句を言おうと振り向くと、出迎えたときの満面の笑みとはまた違う笑いを浮かべていた。眦は細められ、口端は僅かに持ち上がっている。その俺以外の誰にも見せることはないだろう表情を見るたびに思う、俺はこいつになんて愛されているのだろうかと。
「ロマ、帰ったら一番にすること、あるやろ?」
「……寒ぃからヤダ」
ほんなら、とスペインはもう一歩体を進めて、静かに扉を閉めた。おかげで先ほどまでの寒さが幾分やわらぐ。
「これならええやろ」
それは駄々をこねる子供に諭すような口調で、退路が一つ減らされたことを俺は実感した。別に、嫌なワケじゃない。気恥ずかしいだけで。何千何万回と繰り返した行為で、一緒に住んでいた時には一日に何度もする時もあった。いや違うな、離れているから余計にたまに交わすのが恥ずかしくなるんだ。
「ロマからしてくれへんの?」
こういう言い方をすれば俺は折れる、とスペインは知っている。俺も、あいつが言ったのだからと自分に言い訳が出来る。自分本位で狡いようで、実際は俺のことを考えているんだ、この男は。
体を向き直してスペインの肩に顔を乗せて両手を腰に回した。スペインも俺の腰に手を回して、こいつの顔が近づいた。吐息が頬に当たる。
「久しぶり、だな」
「前に会議で会うたやん」
「それはそうだけど、そうじゃなくてこの家で会うのが久しぶりってことだよ!」
それくらいわかれよ馬鹿、と睨みつけると、宥めるためにか頬に音を立てて口付けされた。それは一度では終わらずに二度三度と繰り返され、鈍感さに腹を立てていたはずなのに、苛立ちはあっさりと静められてしまった。
「ロマからはしてくれんの?」
幾度目かの口付けの後、名残惜しそうに離された唇が耳朶に軽く押し当てられた。冷えきっている部位に触れられ、ひどく熱く感じる。その上、その状態のまま喋られるのでたまったもんではない。
「っ、やめ」
「なぁロマ、親分にもして?」
こいつは俺からキスするまで、何度でも囁き続ける。俺は確信していた。しかも悪意なく。足腰が立たなくなったとしてもその鈍感さで、ロマどないしたん? なんて暢気に言ってのけるのだ。気恥ずかしさと情けなさと僅かな腹立たしさがない交ぜになった感情を腹に抱えつつ、声を荒げた。
「してやるからっ、それやめて前を向けチクショーめ!」
「それってなんのことや?」
「っあ」
わかっていてやっているのか、本当にわからないのか、スペインはなおも耳元で囁いた。思わず出てしまった声に顔が熱くなる。何やってるんだ俺、こんな声出して、一人で悶えて!
いい加減我慢の限界が越えた。もう無理だ。頭を左右に振って、思考をはっきりさせるとスペインの側頭部に狙いを定める。そして渾身の力で頭突きを放つ。長年鍛え上げた技術のおかげで、効果は抜群だ。衝撃から頭が痺れるような感覚がしたが、それ以上にスペインは悶絶している。しまいには、うめき声をあげてしゃがみ込む始末だ。両手で頭を抱え込んでいるあたり相当な痛みのようだが、自業自得としか思えない。
「いつまでもバカなことしてねーで、さっさとメシ」
背を向けてコートを脱ぎ始め、ポールハンガーにさっと掛けると足早にリビングに駆け込む。スペインのバカの痛みが治まる頃にはこの赤くなった顔も治っているだろう。あいつが立ち直るまで、まだ時間は掛かるはずだ。
Written by BAN